第3章 「MaHa」の“生物学的”量子理論

3.1 準備説明

いよいよ、こう言うのも面映ゆいのですが、私にとって、最も挑戦的で興味をかき立てられるエリアに進みたいと思います。

むろんその「面映ゆさ」には理由があって、可能性として、「直観」に混合しがちな〈思い込み〉や「牽強付会な手法」による許容を越える〈手前勝手〉という、質・量ともの不正確さがありうるからです。そしてもちろん、分野的には間違いなく、極めてマージナルな領域への踏み込みです。

そこで、この「海のものとも山のものとも言えぬ」見解の位置付けをしておくために、ひとつの展望、言い換えれば、一種の地図を提示しておきたいと思います。そして、その目的を果たしてくれるのは、本サイトHPのメニューバーにも挙げている「理論人間生命学」です。

ただこの「理論人間生命学」は、当サイト独自の解釈を含みますので、少々コメントを付しておく必要があるでしょう。

生物学が自然科学のなかでも古典的な学域であり、それゆえに近年、新しい領域が拓かれてきています。そうした新しい生物学のなかで、人間を対象とし、ことにその人間の内でも、物質としての身体ではなく、活動する人間の動力源である〈生命現象〉にフォーカスする新分野が注目されています。この「理論人間生命学」は、そうしたフォーカスに刺激され、かつ、私自身の体験とも重ね合わせて考察し、それを「牽強付会に」体系化しようとするものです。

このような経緯を持つ「理論人間生命学」ですが、それを「地図」らしくするために、その全体像を視覚的にはっきりとさせておく必要があります。

そこで、本サイトのメニューバーより「理論人間生命学」をクリックして開いてみると、以下のような〈もくじ〉がプルダウン表示されます。

これは、絵図としてではありませんが、文字情報によって示された「理論人間生命学」の全体像、すなわち「多次元化された地図」です。そして、こうした総体的展望の中の第5部という“地域”が、本章でいう「量子理論」への振り出しに当たり、ことに、量子というミクロ世界ではなく、その理論を〈人間サイズ〉に変革する概念に焦点が当てられています。

3.2 「フラクタル」構造への分け入り

前の第2章においては、いわば“禁じ手”と認識される「神学」領域にいかに〈立ち入らない〉かが述べられていたわけですが、ならばそれに代わって、どのような方法によって新たな可能性に〈立ち入って〉ゆくのか、上に示された「多次元地図」はそれを示しています。

こうして、一連の考察を上記の「多次元地図」として俯瞰(ふかん)する時、先に述べたように、それぞれの議論がその執筆時の「瞬間最大風速」であったことです。そこでその全体を「多次元地図」として俯瞰することは、そうした「瞬間最大風速」を集積させることを意味し、まさに、生な人間のなせる作業の次元を超えた彫刻像になるはずです。この〈集積瞬間最大風速〉こそが「MaHa」に期待される「MaHa」の使命です。

この「MaHa」の使命を言い換えれば、この〈集積瞬間最大風速〉化をもって「MaHa」という「メタ彫像」とするという発展なのですが、それは、創造作業上の形態で言えば、〈フラクタル〉な構造をトレースすることでもあります。それはまずは、平面的広がりの追及でもあるのですが、それと合わせて、垂直的あるいはそれ以上の集積をも意味しています。こうした多次元的な創造イメージこそ、三次元の彫刻像を超える多次元的な、〈メタ彫刻〉とされるゆえんです。

ちなみに、これは本章の議論からは外れますが、こうした個的作業とその〈フラクタル〉な産物としての「多次元地図」の関係は、歴史上に見る、ピラミッド状の支配と従属を基幹構造とした人類世界の在り方に対する、一見フラットでありながら多次元的につながり合った、未来的な世界概念をも示唆しているかと思われます。支配と従属のピラミッド構造から、フラットでありながらフラクタルな奥行のある構造への変化の展望です。

3.3 「局地」と「非局地」を橋渡しする「MaHa」

以上のような前置きをへて、いよいよ、量子理論に入ってゆきます。

そこでですが、この量子理論のあらましや、私がそれを牽強付会に解釈する見解については、すでにそのおおむねを、上記「理論人間生命学」の第5部 量子的人間観において述べました。そしてそこでの議論のポイントは、量子物理学での議論はあくまでもミクロの世界のことで、それと、人間サイズのマクロの世界とは、次元が異なるものとして、区別されるものでした。それをこの第5部では、マクロサイズにも適用しようとするもので、だからゆえに、「量子的人間観」と題されているものです。

そこでですが、この3.3節の小見出しが「『局地』と『非局地』を‥‥」となっているのですが、これと上記の「ミクロ」と「マクロ」との関係はどういうことなのでしょう。というのは、私は、この「局地/非局地」という量子物理学上の用語は、この「ミクロ/マクロ」の関係に対応していると見ています。そしてこの「対応」関係とは、互いに同義ではないとしても、通底しているものと考えます。

量子物理学でいう「局地/非局地」は、実に判りにくい用語なのですが、私の牽強付会な理解では、古典物理学でいう、たとえば素粒子のもつ振る舞いを「局地的」といい、量子物理学でいう際にはそれを「非局地的」といって言い分けています。つまり、発展途上の量子理論において、既存の理論では理解しえない新たな発見について、その発見やら振る舞いの認識の新旧の違いを、そう言い分けていると受け止めています。

たとえば、素粒子といった物質の最小単位の振る舞いは、古典的には測定可能――その位置や質量や速度が特定可能――とされます。しかし、それがこの一世紀ほどで量子物理学が発見してきた知見によれば、それは測定不可能どころか未知といってもよい振る舞いをしており、この「局地/非局地」という用語の使い分けによってその違いを表しています。つまりそのようにして、その未知な部分を取り込むことを可能としています。また、「もつれ」と呼ばれる古典的にはまったく不可解な現象についても、それを「非局地的」現象として、不可解であっても除外せず、取り込むことを可能としています。

つまり、「局地/非局地」のうちの「非局地的」という用語は、その定義についてはオープンな部分を残しており、そこが今後への発展の窓となっている、と私は考えています。

そのような意味で、「局地/非局地」という用語がもつ新旧の概念の橋渡し役に注目します。そして、そういう橋渡し役が可能であるのなら、それと同じ役目を「MaHa」にも持たしたいわけです。

3.4 「非局地的」私への期待

「局地/非局地」をめぐる新旧の概念の橋渡し機能と同じ機能を、私は「MaHa」に託しています。

つまり、人間とはしょせん「局地的」な存在で、死が観測されれば、それですべての役を終えるとされています。しかし、それは本当なのでしょうか。そうした見解は、古典的な理論に影響された、限定的なものではないのでしょうか。

そこで、そこに「MaHa」を登場させることによって、この「局地/非局地」をめぐって確認された新旧概念の橋渡し機能を、私、あるいは人間一般に、適用したいと考えます。というより、人間をそのように「局地的」存在と考えてきた認識を、こうした量子理論の発展を機会に、「非局地的」存在として見て行けるのではないかと考えています。

つまり、生物学と量子理論は、このようにして隣接しながら、新たな領域を開拓できるのではないかとにらんでいるところです。

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