人生はメタ旅に向かう(7)

〈新展開〉章 《哲学する生命》

「同じ山だった」体験の意味

このシリーズでは、「人生は旅なり」とするその旅の、リアル旅からメタ旅への変化をたどってきました。そして前回の追加章では、旅のもつ移動=運動としての効用が「運動脳」として、私たちの精神の座へも決定的に作用していることに注目し、メタ旅へと向かう流れの脳医学上の意味を見出しました。そしてその最後に、ひとつの〈収れん〉の気配には触れたものの、それが一体、何の収れんであるのかは、少々詳細議論にとらわれ過ぎていて、まだその全体像を明快に述べるまでには至っていませんでした。

ともあれ、そのようにしてこの一連の考察が一挙に視界を広げたのは確かです。というのも、この「人生はメタ旅に向かう」議論がその「旅」をどちらかと言えば一般的にテーマとしたのに対し、兄弟サイト『両生歩き』に連載の「日本エソテリック論」においては、世界ことに西洋との対比において日本や自分というローカル=局地性をテーマとすることで、旅や移動とは反対向きである、独自性や定着性――「伝統を再考する」とか「旅に出ない」に通じる――をテーマとしてきました。こうした二本立てのアプローチは、言ってみれば、帰納(一般化)と演繹(特殊化)という、ひと組の定石的な思考手法に立ち、しかもそうであるだけに、それぞれが別々の経路をたどっているものでした。

そうした二領域でのシリーズが、このひと月ほどでそれぞれ、ほぼ時を同じくして完結(追加章も伴い)することとなり、この〈収れん〉の気配を生んでいます。つまりここに、「人生という旅」と「日本や自分という独自性の追求」という、二つの別々の頂上を目指していたはずの登山が、あたかも同じ山の同じ頂上であったかの、予期もせずしかも不思議な〈収れん〉を覚らせてくれることとなったのでした。

そこでこの〈収れん〉の持つ意味なのですが、それは何やら、方やの西洋や科学や因果律といった一般化や近代化の視界と、他方の日本や自分や意識といった特殊化や温故知新な視界という、言わば出会うはずもなかった二つの道筋が、まったく別次元からの働きが加わることによって、ひとつに融合しあうかのような体験をもたらしてくれています。

そうした想定外を導く働きとして――偶然にもセランディピティ風にも――登場してきているのが、生物学の分野での「生命を動的平衡」として見る視点と、ひとつの伝統的哲学上の観点があります。いうなれば、《哲学する生命》とでも表現できるような新展開です。

そこで今後、この何やら新次元な視界にのぞんで行く前に、この新展開の意味合いを再吟味しておきたいと思います。

「動的平衡」論

私が自分の思考の根底な起点としゴールとするものは、みずからの健康です。それは自分とそれを中心に同心円状の環境とが織りなす、一種のエコロジカルな関係を探索するものです。そうして健康の追求は、片やで「体が資本」と俗称もされる人生の秘訣にも沿ういかにも実務的な発見と、他方でそれをもたらす実に深淵な生命の仕組みへの気付きをもたらしています。

ただそこで、前章で述べたように、最新の刺激をもたらしてくれた『運動脳』は、それが「運動」という私の人生実践と成果の“秘策”を取り上げた論旨であるだけに、いわば我が意を得た感はありました。しかし、そこで同時に述べたように、その論証が、私が疑問をいだく物的還元主義の典型であり、自分が意識して開発してきているもっと広く相互的なエコロジー的つながりについての視点の欠落があります。

そうした問題意識を抱いていた私――海外在住がゆえ気付きに時間を要しました――に出現したのが、分子生物学を専門とする福岡伸一博士による「動的平衡」論です。

「動的平衡」とは

その専門領域での厳密な議論はむろん本稿の及ぶところではなく、ここでは、その領域での最新の知見がもたらしている、いわば、上記のような人生上の実務的な意味合いにおいてそれを取り上げます。その点で、私がたびたび採用してきた牽強付会な活用のさらなる一例と言えるものです。

分子生物学を専門とする福岡伸一博士は、ことにその専門領域を一般向けにかみ砕いた本を数多く出版しており、しかもそれらは、専門的議論にしてめずらしく、広い読者を獲得しているようです。そうしたことから同博士は、ここで私が改めて言うまでもなく、この混迷の時代の行方を先導している専門そして一般の両世界における、先導者の一人であるとお見受けします。

そうした博士の諸文献のうちから、ことに今現在で第3巻にまで進んだ『動的平衡』(小学館新書 301, 333, 444)と、西田哲学との類似性を説いている『福岡伸一、西田哲学を読む』(同 386)は、私がここに記す見解を抱くにいたって大いにインスパイアされた文献です。

 「実在」として見る

そこでまず、この「動的平衡」という生命科学の分野における画期的な生命観です。それは従来、未解明とは言われながらも、生命という実体に宿るメカニズムを前提とする発想を根底的に見直す生命観です。そして、生命を実在として定義することだとして、同博士はこう述べます。

池田先生〔後述する哲学者〕は、私の著作『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を高く評価してくれていた。評価は、この本が、生命を、存在としてではなく、実在として定義づけようとしている点に関してであった。これはちょっとわかりにくい表現かもしれない。生命を、操作的ではなく、本質的に定義しようとする試み、と言い換えてもよいだろう。〔中略〕池田先生は、このような〔操作的な〕議論のあり方を「生命を外部の視点(立脚点もしくは着眼点)から存在として見ている」だけだと批判する。生命の定義は、もっと生命の内側から、生命自体になりきってなされなければならない、そう言う。これが実在としての生命をみる見方である。

『福岡伸一、西田哲学を読む』pp.12-3 【注:〔〕内は私(松崎)によるコメント。以下同じ】

この「実在として見る」との観点は、さっそくの私の「牽強付会」ですが、ここでいう「生命」を「私自身」と置き換えた時、「私自身の実在」と読み替えが可能で、これは私がこれまでの人生において、自分自身を見るにあたって取ってきた観点で、時にはそれを「生活者」と呼んだり、意味させたりもしてきています。ある意味では、そう理論を〈擬人化〉する技法でもあり、さらに言い換えれば、自らが現実に体験している情念と重ね合わせるとか、「同情する」とさえ言ってもよい発想です。そうした立脚点であり、出発点であり、そういう立場の維持です。

ただし、この「実在として見る」との観点は、以上のように説明した場合、いわゆる「感情移入」の一種と誤解され、安易な感情論として片付けられる恐れがあります。しかし、私の場合、やむなくそうした不明瞭なニュアンスを引きずっているとしても、もちろん博士の論点は全くそうではなく、今日の最先端の厳格な科学議論に耐えかつ先導するものです。それは、電子顕微鏡レベルの最微細な解像度をもつ生物化学上の物質関係を追求し、綿密な分析技法と論理性に立って現象を追い、しかもそれを実験をともなうエビデンスとして立証した上で、生命とは何かを定義するものです。ひらたく言えば、今日の世界最先端に位置する科学論議上の新説として主張されているものです。

 生命は「効果」

そういう生命は、単体の細胞だけでなくその総合された構成体としても、常にとどまるところなく生成と破壊を続けており、そうした流れのその時々にあって平衡状態をなしている効果が生命である、というのが同博士の「動的平衡」論の要所です。つまり、私たちの身体は37兆個の細胞で構成されており、その個々の細胞は一刻もとどまらずに崩壊と形成を続けています。ですから、人体全部でも一定時期を経れば、もうもとの体ではないと言います。そういう流動が生命の本質を物語っているというものです。

たとえば私たちの消化管の細胞はたった二、三日で作り変えられている。一年も経つと、昨年、私を形作っていた物質はほどんどが入れ替えられ、現在の私は物質的には別人となっているのだ。つまり、生命は絶え間のない分子と原子の流れの中に、危ういバランスとしてある。私が自らの生命論のキーワードとしている「動的平衡」である。

『動的平衡』p.296

このように、物質的にはもう違う身体でありながら、私たちは、人格としては同じものを保っておりそれが生命と認識しているわけです。つまり、こ「人格」とは、物という実体ではないが実在であって、この実体ではないながら実在しているのは確かなものが、博士のいう〈生命現象とは構造ではなく「効果」である〉と言っていることです。いうなれば、この、実体ではないのに実在しているかに私たちに認識あるいは”誤認”するマジックあるいは幻想さえをおこさせているのが生命です。

この実体と実在の間の実に深淵なギャップに橋を架ける生命論に博士を達せさせた、いかにも意味深いひとつのエピソードがあります。それは、長年にわたった分子生物学研究所の現場でのまるで奴隷のような研究生活を積み上げてゆく中で、特定の遺伝子の働きを突き止める実験のために、渾身の試みとして構想したテストネズミ――GP2という遺伝子を欠損させたネズミ――を作り出し、その欠損がどうその完成した生体に表れるかが見られる機会に達しました。だがその結果は、他の普通のネズミと何の変りもなく、それまでの努力は何だったのだろうかと、おおいに落胆させられる体験となったのでした。そして博士はこう言います。

 私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡が持つ、やわらかな適用力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。
 結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。
『生物と無生物のあいだ』pp.271-2

「生命機械論」への疑問

博士には、現代の文明への強い疑問があります。以下、やや長い引用となりますが、私もまったく同感のものです。

 もうかなり前のことになるが、私は『ヒューマン ボディ ショップ』という書物を翻訳した。タイトルはヒューマン・ボディ(人体)とボディ・ショップ(自動車の板金・修理工場)が掛けてあり、あたかも機械部品を修理交換するような感覚で、生命の「パーツ」が商品化され、操作されるに至った経緯と、主に米国の状況をルポルタージュしたものだった。
 生命部品の商品化は売血という形で始まり、やがて臓器の売買、生殖医療を担う精子、卵子、受精卵、そして細胞へと波及していった。
 現在、私たちは、遺伝子が特許化され、ES細胞が再生医療の切り札だと喧伝されるバイオテクノロジー全盛期の真っ只中にある。私たちが、ここまで生命をパーツの集合体として捉え、パーツが交換可能な一種のコモディティ(所有可能な物品)であると考えるに至った背景には明確な出発点がある。それがルネ・デカルト〔1596-1650〕だった。
 彼は、生命現象はすべて機械論的に説明可能だと考えた。〔略〕
 この考え方は瞬く間に当時のヨーロッパ中に感染した。そして、デカルトを信奉する者、すなわちカルティジアン(デカルト主義者)たちは、この考えを先鋭化させていった。
 〔略〕
 デカルト主義者たちは進んで動物の生体解剖を行い、身体の仕組みを記述することに邁進した。デカルト本人は人間と動物の間に一線を画したが、カルティジアンの中には、やがてそれを乗り越える者たちが現れた。
 18世紀前半を生きたフランスの医師ラ・メトリ―(唯物論の哲学者として知られている)は、人間を特別扱いする必然は何もなく、人間もまた機械論的に理解すべきものだとした。
 現在の私たちもまた紛れもなく、この延長線上にある。生命を解体し、部品を交換し、発生を操作し、場合によっては商品化さえ行う。遺伝子に特許をとり、臓器を売買し、細胞を操作する。これらの営みの背景にデカルト的な、生命への機械論的な理解がある。
 この考え方に立つ思考は現在、一種の制度疲労に陥っていると私は思う。効率的な臓器移植を推進するために死の定義が前倒しされ、ES細胞確立の激しい先陣争いが繰り広げられることが、果たして私たちの未来を幸福なものにしてくれるのだろうか。
 〔略〕
 カルティジアンに対するカウンター・フォースとして、私は今、二つの可能性を考えている。一つは生命が本来持っている動的な平衡、つまりイクイリブリアムの考え方を、生命と自然を捉える基本とすることである。
 生命とは何か?
 この永遠の問いに対して、過去さまざまな回答が試みられてきた。DNAの世紀だった20世紀的な見方を採用すれば「生命とは自己複製可能なシステムである」との答えが得られる。確かに、これはとてもシンプルで機能的な定義であった。
 しかし、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。それは、生命が「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい視点である。

『動的平衡』pp.255-8
哲学的観点

このようにして「動的平衡」という、機械論な認識によらぬ、「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」生命の新たな定義が提示されたわけです。ただ、この「動的平衡」という定義に関し、その動的な状態が生命であるとするには、その最後のところで、いまひとつ飲み込み難いギャップがあります。つまり「効果」とも表現されている一種の因果関係の脈絡を異とする認識です。そこでこのいま一歩のギャップをつなげるのが、一般的には哲学的と分類される思考法です。

この哲学的前進を可能としたのが、上記の引用文にある池田善昭博士――日本独自の哲学の金字塔を打ち立てた、難解でも知られる西田幾多郎の研究者――でした。

そこでこの二人の博士は、実際に自論をもちよって対話し、互いの考えている真意を交換します。その質疑応答の進展の記録が、上述の『福岡伸一、西田哲学を読む』で、西田幾多郎の著作より、そのテクストの一字一句を取り上げ、福岡博士の考えと突き合わせていったのでした。

同書の冒頭には、以下の文言が掲げられています。

 プロローグ
 西田幾多郎の生命観を解像度の高い言葉で語りなおす。
 (略)

 生命の定義――動的平衡の生命論――が、西田幾多郎の目指していた生命に対する考え方と極めて密接な相同性を持つこと、あるいは通底しているものがあること、を指摘してくださったのが池田先生だった。

『福岡伸一、西田哲学を読む』p.3, pp.19-20

こうした導入部に続いて、同書は、両者間での詳細な語句やその真意の照らし合わせを行い、福岡と西田が生命をめぐって、同じような考えであることが確認されてゆきます。そうして「動的平衡」論の哲学的意味が次々に引き出されてゆくのですが、それをトレースするには、それこそ一冊の書物を必要とします。そこで、ここではその要点のみの指摘にとどめて、議論を進めます。

さてここで私には、そうした哲学的意味がさらに意味する、もう一つの牽強付会な自論があります。

それを述べるには、まず、こうして池田博士を仲介役として確かめられた西田哲学と福岡の「動的平衡」論の「相同/通底」関係について、以下の西田の表現を見てみます。

 主体と環境との矛盾的自己同一的に、時間と空間との矛盾的自己同一的に、全体的一と個別的多との矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する

 (『西田幾多郎全集』第11巻~「生命」291ページ 岩波書店)

 我々の身体は無数の細胞から成立している。一つの生殖細胞の無限なる自己分裂から成長したものである。それは全体的一の自己形成と考えられると供に、細胞はそれぞれに独立性を有し、それぞれに生きたものである。全体的一としての全体が自己自身を否定して、個物的多として細胞的に環境を自己に同化する。

 (同前 315ページ)

 全体的一と個物的多との、主体と環境との、内と外との矛盾的自己同一に、尾を噛む蛇の輪の如くにして、生命というものがあるのである。

 (同前 315~316ページ)

こうした西田の独特の表現に、福岡はその難しさを越えて、自分の「動的平衡」論との「似通い」を発見してゆきます。

さてそこでなのですが、ここからが私の自論です。つまり、この西田の表現のうち、幾度も使われている「矛盾的自己同一」という語に私は注目します。

おそらく、上記の福岡の「効果」という語も、この語のうちの「自己同一」を意味している対応だと推測します。それを私の場合、ことに先に触れた生活者との視点で、この社会での矛盾にさらされて生きている人にとって、この「矛盾的自己同一」という自己認識は極めて重要な観点だと思います。つまり、自分が道具と化しているその「矛盾」にあって、その被造的な自分を含む自分をどう全体視し「自己同一」し、人間に戻るかということです。

この乗り越えは日常的には容易ではありませんが、この視野拡大こそ、哲学がなせる哲学的使命です。

また、ここに「主体と環境」とか「内と外」とかと、対立的に想定されている二面性も合わせて重要です。これこそ、私が以下に論じようとしている、個と社会という人間存在の現実的な基本的形態へと考察を進むにあたって、私たちという生命にとっての重要な所与条件です。

そしてこの二面性はまた、本稿の冒頭に述べた、「収れん」の中身である、「方やの西洋や科学や因果律といった一般化や近代化の視界と、他方の日本や自分や意識といった特殊化や温故知新な視界という」、そうした「二つの頂上」へも通じるものであります。

個的生命から社会的生命へ

ここで私は、この生命論がもたらす社会的意味の視点を浮かび上がらせたいと考えます。つまり、私たちのほとんどは、一つの生命として、無菌室中で生きているのではなく、それぞれの社会にあって、それぞれの矛盾関係にさらされています。そういう社会的生命としての私たちの視点を明確に語っておきたいのです。

それがどういうことかを明示するために、以下、福岡博士の本――『動的平衡 2』第10章、西田哲学に見る生命観 pp.276-7――にある、上記対談をまとめたテキストに加える形で、私の読み替えを【】内に表し、そこのところの両属する、あるいは同様な意味合いを浮上させてみます。

 西田哲学での「生命」

 西田は「無限なる個多が、自己否定的に一に於いて表現せられるのが、時の形式である。それは動きゆく世界、亡び行く世界の形式である」と書いている(「生命」『哲学論文集 第七』所収)。そしてこれと対置される形で「一が自己否定的に、自己に於いて無限なる多を表現するというのが、空間の形式である」と述べている。これは西田独特に難解な表現であるが、あえて強引に解釈すると次のようになる。多と一、と西田が言うのは、要素【私】と全体【社会】という意味である。無限の個多(もしくは単に「多」)とは、無数に存在する分子もしくは細胞群を【無数に存在する私を】イメージすればよい。一というのは全体、つまり多細胞生物の全体像【社会という私たちのつくる全体】をイメージすればよい。

 そして、多から一という方向は、私〔福岡〕の解釈するところ、要素【私】から全体【社会】への合成【包摂/帰属】の方向であり、一から多という方向は、全体【社会】から要素【私】への分解【自立】の方向である、と捉えることができる。西田は前者を、時【時代】の形式であり、動き行く世界、亡びゆく世界の形式である、と述べる。ついで、後者を、空間【自由あるいは解放】の形式であり、自己保身を保つ世界、永遠の世界の形式である、と表現している。

 後者の「一から多」、全体【社会】から要素【個】へ向かうこと、つまり分解【自立】なので、要素が拡散していく方向であり、空間的な広がりを持つものだ、ということはわかりやすい。しかし、これがどうして自己保身や永遠の世界なのか。そしてさらにわかりにくいのは、前者の「多から一」、つまり合成【包摂/帰属】とは秩序【体制】を生成する方向なのに、なぜ、これが亡びゆく世界なのか、ということだった。この疑問がなかなか解けなかった。

 でも、これを生命【私の命】と時間【人生】の問題と考え、「空間即時間【自由即人生】、時間即空間【人生即自由】」の中で捉えなおしてみることが可能かもしれないと気づくようになった。

〔中略〕

【私の牽強付会解釈】つまり、「空間即時間、時間即空間」という、自分と社会が同一化したひとつのユートピア世界と考える、ということ。

空間即時間【ユートピア世界】の中で、一【社会】は、不可避的に(すなわち自己否定的に)、常に動きゆく世界、亡びゆく世界として表現されている。そしてこの連続性、もしくは同時性が、時間を駆動している、と考えれば、西田がこれを「時【時代】の形式」と呼んでいることも理解できるように思える。

【私の牽強付会解釈】ということは、生物界の動的平衡を、哲学的に解釈し直し、それを社会的に読み直すと、社会は不可避的に動的に亡びゆくものというのが「時の形式」である、と読み解けるということである。

以上のようにして、私の課題である、生物的「動的平衡」と社会的「動的平衡」が、むろん形態上は同等ではないものの、一種のフラクタルな様相をなして、性質上は同等のものであることを浮上させることができたのではないかと思います。

《疎外》の由来の新解釈

すなわち、生命とはその本質として、「動的」で「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」として、「一」なる社会を乗り越えてゆく存在であることを意味しているのではないかと解釈するものです。

つまりこれを一言で言い換えると、「哲学する生命」ということであり、その哲学をなすものが、物的関係の集合体を越えて「効果」される〈情報〉の活躍する世界ということです。

私はここに、現代の人間の《疎外》の問題を、いわゆる階級主義論やマルクス主義論――唯物論の枠をもつ――を用いてではなく、もう一つのルート――生命論による論証――をへて、述べることができる展望を見出したと受け止めています。

そしてどうやら、これが、冒頭に述べた〈収れん〉の意味、そして「生活者」にとっての〈生きずらさ〉の出どころなのだろうとするものです。

ともあれ、この到達を起点としてさらなる人間生命学を展望し、この「新展開章」の結論といたします。

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