第4原則 自分の常識を「洗い直せ」

まず初めに、唐突なメッセージから手を付けますが、本稿を書かせているのは、私の意識で、それに疑いはありません。そして日頃より、私は意識を自分の中核として受け止め、それを自己存在の根拠としてきています。さらに意識は、感覚を通して自分の身体を感じ取ることができ、身体の面でも、そういう自分が存在することを確かめています。こうして、自己存在は、意識、身体の両面において疑えないと安住してきています。こうした確信は、誰にでも、同じことだと思います。

今回とりあげる第4原則は、あまりにも当然とされ、疑われることすら疑わしい、その自分の意識にまつわる常識を、「洗い直せ」というものです。

意識というはかないもの

その意識についてですが、たとえば、そういう私が眠ってしまえば、その意識は、少なくとも一時的には消滅してしまいます。もちろん、やがて目覚めがやってきて、その意識は再現します。そして、記憶によって、過去の意識にあったものとの食い違いも見いだせず、周囲の世界と同じように、自分の存在の一貫性が疑われることなく維持されます。

人間は、そういう意識の存在を実体――リアルな真実――として受け止め、片やでは、それを書き留めて文献に残し、他方では、事物を作って建造物や製作物として物体化させ、その総体として、人類の歴史や文化を構築してきました。

それらは通常、疑えない実在とされています。しかしいったん、そうした歴史や文化を支える個々の意識の原点にもどれば、上の眠りのエピソードに見られるように、一時的とはせよ、それらは意識ごと、はかなく現実から消滅してしまう性質のものです。ましてそれが死によるものとなれば、その消滅は永遠です。果たして、その実在が真実か、それとも、その消滅が真実なのか。

すなわち、意識という窓を通して見えている光景は、その窓を閉じれば見えなくなる、不確かなものなのではないか。

脳という映像装置

人間はこれまで、この意識という不確かな存在の根拠を求め、身体の解剖から魂の世界にいたるまで、多面にわたって探究してきました。そして、その発生の座が、どうやら脳という臓器にあるらしいとは突き止めてきました。そうなのですが、脳をどういじって見ても、たとえば、血液が心臓というポンプによって循環していると判るようには、これがその意識であるとする証拠は発見できていません。

つまり意識とは、あたかも、映画館のスクリーンに投影された映像のように、その投影装置が点灯している、つまり、機能している間には存在するものの、その電源が切れれば、たちどころに消滅し、その観客は闇の真っ只中に放置されてしまいます。

むろん、その映像は、静止画像ではなく、連続して投影されて動画というストーリーをなし、一定の意味を創成します。そして私たち個々は、その数々の投影物語を感受し、記憶し、それを集大成して知識体系化し、ひとつの世界描像としています。もちろん、その世界描像には、自分の身体もその中に含まれていて、その意識が点灯している限り、その映像としての世界描像と一体をなして、自分を中心とした世界が、広大な実体であると解釈されます。そしてこの描像プロセスは、誰にとって同じものとされているがゆえに、その投影現象が疑われることはありません。それこそその映画館装置は、意識にものぼりません。

人間は、生物として進化し、高度に発達した脳をもつようになった結果、こうして、情報の集大成としての自我を通して世界を包摂しつつ、他方、その脳は、身体の一部に属する臓器という物体にすぎないと限定されるという、《情報と物体の両面を持ちながらそのいずれでもあるという、「二義性」あるいは「もつれ合い」》を特徴とすることとに至りました。

意識は幻想

別の角度から言えば、この世界描像とは、そうした映画館装置が作り出す映像と物語のなす意味による情報群の産物です。したがって、その描像が、現実界の世界に一致しているものかどうか、その両者の関係は、誰にも判らないものです。その意味では、意識は幻想です。そして人は、その映画館の観客としてその世界描像の物語=幻想を実在として受け入れます。しかし、その映画装置の点灯が切れてあらゆる映像が消えて暗闇と化してしまえば、その幻想も跡形なく消えています。

こうして人間集団として、誰もがそのひとつの世界描像に合意し、誰もがそれを共有するならば、その唯一存在が世界であるとの「申し合わせ」の成立ということとなります。

ただその一方、個々の人間は、その生まれや育ちの違いという個々の環境に影響されたそれぞれに異なる個別描像も持っており、厳密に言えば、それは人の数だけ存在することとなります。いうなれば、私の世界像と、あなたの世界像とは、本当に一致しているのか、その保障はありません。(ちなみに、日本人はその共通性を妄信し、西洋人はその違いを妄信する傾向があります。)

映画館の錯覚

こうして私たちは、言うなれば、映像を現実と取り違える「映画館の錯覚」とでも呼んでよい架空に安住し、ゆえに、そうした「映画館の錯覚」を解決しようと、人類は、揺るがぬ真実世界を見つける探究をしてきました。人類の思想の歴史は、この世界が何か、その探究の歴史といってもよいでしょう。

人類は、この「映画館の錯覚」から脱出するため、片や西洋では、古代ギリシャ哲学以来、それを誰が見ても疑えない客観的要素――映画の物体面――に求め、その発見を積み重ねる手法をもって、やがてそれを科学へと発展させてきました。他方、東洋では、その方法を、個人の精神の研鑽――映画の心象面――をもって、自我のはかなさを克服する究極認識を探究し、世界と自我が一致する境地――梵我一如(ぼんがいちにょ)――への到達に努めてきました。ブッダの言葉を借りれば、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」です。

この東西の違いは、上の「映画館の錯覚」になぞらえて言えば、西洋はその物質側――つまりスクリーンの向こう側――の探究を、そして東洋はその精神側――つまりスクリーンのこちら側――の探究を、それぞれに極めてきたわけです。

境界領域の開拓

本「理論人間生命学」が取り扱おうとしている領域は、西洋がその王道としてきた科学の到達点と、東洋が誇ってきた自己修練の到達点の、その両者の異なる成果に、重なり合う部分があり、両者が矛盾しない世界があり得ることを前提とするものです。

むろん、そうした互いの世界の境界を一緒に扱う領域は、西洋からは「疑似科学」として、東洋からは専門家のみ知る閉鎖領域として、それぞれに排除を受けてきました。

しかし、そうした排除も、上記の「映画館の錯覚」の視点から見れば、いずれも、自らを映画評論家のごとくに、鑑賞の権威者の地位に安住している限りにおいて、“同じ穴のムジナ”の類かと思われます。

そうした幻想や限界を自認するなら、とにもかくにも、その条件をフルに背負って、みずからを実験台上のそういうサンプルとし、《映像と鑑賞》――主体と客体――の両者を生きる体験にさらしてみる手法が、世界発見の残された確実な現実策となるはずです。

その手法は、言い換えれば、実験を経るという意味で科学的手法であり、また、仮説であろうがなかろうが、ひとつの見解をみずからに課してみるという意味で、修験道的です。

また、今日の世界状況のように、歴史を牛耳ってきた西洋諸国の先導性に陰りが著しく、他方、追い上げにたくましい東洋諸国の台頭が顕著である時代において、両者の長所を融合させる手法というのは、もっとも賢明な混迷からの脱出策であるとも言えます。

本「理論」は、そういう東西が培ってきた最先端の知的産物から、科学からは量子理論を、そして東洋思想からは仏教理論の考えを採用し、その具体的な前進を探ってゆくものです。

「まえがき」を終えるにあたって

以上、4回にわたって、原則という形で、本「理論」における問題設定の枠組みを述べてきました。ここで、この4原則の提示をもって、本理論の「まえがき」に代え、次回より、議論の中味に入ってゆきます。

次回は、その考察を「エントロピー」をめぐる概念を柱に、生命現象の核心に迫ります。この専門用語の語源は熱力学にありますが、本理論では、それに量子理論上の「二義性」あるいは「もつれ合い」の概念を結び付けるものとなります。

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