おことわり
前章5.1で、それまでの記述の流れを遮ってやや唐突に、最近の私自身の生活体験――タイとカンボジアへの旅――においての発見に触れ、これまでにこの「理論人間生命学」で述べてきた議論がもたらすものと、この旅の体験的成果という、〈突然〉にやってきた合体について述べました。
そしてそれに加え、これはもはや“勇み足”の感もしなくもなかったのですが、当サイト『フィラース Philearth』に「近量子生活」という新たなメニュー項目を加え、こうした体験的合体成果の今後への作業の場を設置しました。
- この「近量子生活」の新設に当たって、これまでメニューに挙げていた「セルフ生殖社会」と「四分の三プロジェクト」という二つややマイナーな項目を、「自由記事」のなかに移しました。
- それに、この「近量子生活」は、項目の順位として、「ホーム」につづく先頭に置かれているように、筆者の今後の取り組みのそれだけの意味を含んでいることを表わしています。
こうして、当サイトでの議論は、進行中の主要テーマが“二頭立て馬車”になったかのような様相となっています。
こうした勇み足状態は、読者の皆さんには煩雑な印象を与えるものではありましょう。そこに、以上のような私の作業進行上の生でホットな事情をお知らせし、書き物としては異例な形ではありますが、この「理論人間生命学」と新設の「近量子生活」の両者平行した記述を行ってゆきます。
そこで本章では、上記旅までに構想していた組み立てに戻り、この勇み足の背景のひとつ――東洋思想と量子理論の親近性――を述べてゆきたいと思います。
伝統的東洋思想の斬新性
これまで私は自分の体験的知見をもとに、その量子論的な意味合いについて、主に日常生活の体験を材料に、そこ潜むものを探ってきました。むろん私は物理学者ではありませんので、その探索の手法は、一種の人生体験解釈といったもので、そういう意味では、そこには自分が生きてきた日本や東洋文化の影響圏から脱していないは確かなものでありました。
ただ、その探索にあたっては、その文化的影響が科学的発想とは対極の伝統的伝承といったものが主体であるのは確かなゆえ、だからこそ、それに科学的意味を探ろうと、物理学の知見を参照してきたのでした。しかし、それはどこまでも素人としてのアプローチであり、その意味の限りで、つねにそれを「牽強付会な私見」として扱ってきました。
そうした探索のひとつの産物として、本「理論人間生命学」という個人的思索体系を提示してきているのですが、その到達点として、ことに自分の加齢に伴って高まる生命以後の世界への関心とも相まって、一種の非現生的かつ超自然的な分野への親近性が見出されてきています。
そうした個人的な発展や注目とはおおよそ無関係に、高度に科学的でかつ全人類的な追究の成果として、量子理論の発展があります。そして実に興味深いことに、その発展においても、この世界の根源であるミクロ世界における「非物質性」あるいは物質と非物質の「二重性」の発見があり、それをもって、従来の科学が排除さえしてきた非科学的分野への再認識が広まってきているという、私の個人的な至り付きと類似する同時性があります。
もちろん私の見解に時代の科学の影響は無視できませんが、あえてそれを除去した場合を想定してみるなかでも、東洋の伝統的思索が蓄えてきた、今日性、斬新性が発見されるわけです。
そこで、こうした私的あるいは時代的発見について、私的には自分さえ納得できればそれでいいのですが、ここではその間口を広げ、その専門的権威付けに言及しておきます。
量子理論と「心・あの世」説
ここで取り上げるのは、一人の日本の碩学、根岸卓郎京都大学名誉教授(2014年現在)です。
言うまでもなく、京都大学はノーベル賞学者の湯川秀樹や朝永振一郎らを輩出した日本の量子理論の牙城であり、しかも根岸教授は、数学や哲学、文明論などを広く見渡す学際学者です。
量子理論においては、有名な「コペンハーゲン解釈」というのがあります。これは、さまざまな論争が渦巻いた量子理論の黎明期、物質の最小単位である素粒子について、科学実験による「観察」により、その摩訶不思議な性質――時に粒子であり時に波動である――が発見され、それが実証された誤りなき事実であることについて、著名物理学者ニールス・ボーアにより、1927年に説かれたものです。
この世の万物は、観察されて初めて実在するようになり、しかもその実在性そのものが観察者の意識に依存する。
岸根卓郎著『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」:物心二元論を超える究極の科学』p.99-100
このオリジナルの声明を、著者が解釈しなおしたものが以下です。
万物の根源であるミクロの世界の無生物と思われて〈素粒子〉までもが〈波動運動〉としての〈生命運動〉をしていて〈生きて〉おり、しかも〈心を持って〉ていて、人の心を読み取って〈行動〉する。
同書、p.130
つまり、この二つの引用が物語っているように、科学の科学たる中核的存在とも言うべき物理学において、しかも、私という門外漢ではなく、その道のまさに先導的専門家が、このように論じていることに注目します。
そして、こうも書きます。
「誰も見ていない月は存在しない」。いいかえれば、「月は人が見たとき、はじめて存在する」。
(中略)
「月でも、それを眺める人間でも、あらゆる物質(万物)は、誰にも見られていないうちは波になって広がっているので見えないが(波動性)、誰かに見られた瞬間に一つに見える。すなわち、一箇所で見つかる(波動の収縮性)。
そこで、以上に引用したを土台に、ここから先はそれこそ私の牽強付会なのですが、観点を、人間自身による人間「観察」に絞ってこれを述べれば、そういう物質によって構成されている人間自身そしてその人間が抱く意識についても、「自分がそれを見ているとき、はじめて存在する」、つまり、「自分の意識あるいは自身とは、自分が見ている、つまり意識しているから存在する」ものであることです。
そういう私たち自身の見て見られて形成される存在を、先に私は、「映画館現象」あるいは「ホログラム存在」と述べてきたわけです。
「氣Qui」という新「エーテル」
近代科学の揺籃期の17世紀、宇宙空間を満たしているものを「エーテル」と呼びました。その後、アインシュタインの特殊相対性理論により、宇宙空間は真空で何もないことと想定されました。
しかし、宇宙空間をそう捉える見方自体、人間の発想による産物を超えられず、どうやら宇宙空間には、人間が既知の物質はほんの数パーセントで、他に私たち人間がまだ知らない何かが9割以上も存在していると推定されています。そしてそもそも、「宇宙とは何か」からして、究極的には、人間には預かり知れない「神の創りたもうもの」とのレトリックに頼る方法以外にないわけです。
そこで、伝統的東洋思想には、むろん科学的知見にそうものではない認識とはいえ、宇宙の無限の広がり――「神」という概念には頼らない――の認識法があります。それを本論では、その伝統医学の用語である「氣」の示唆する、人体を含む環境全体をつかさどる働きの限りない延長をもって、それを「氣Qui」と表記するとしました。むろん「氣Qui」にしてもそれが言語レトリックであることに変わりはありませんが、「神」とは一味異なるオープンな捉え方ではあります。
かくして、「氣Qui」は、言うなれば、「神」と肩を並べる役割を負う考えとなりました。ただそれは、その働きの客体全体をさす用語ではあるものの、その働きの主体の存在を意図するものでは決してありません。そういう意味で、「氣Qui」は、その働きを一つひとつ現実の場の実践をもって実証してゆくという〈積み上げ式〉の方法を頼りとすることとなり、用語はふさわしくないながら、集権的な支配構造を排した分権的な体系になじむ性質をもつものです。
「あの世」への越境
非科学的な概念の言わば筆頭として、「あの世」という世界があります。あるいは、東洋思想の根底にある「輪廻転生」という考えには、「前世」という、いずれも、この現実世界とはパラレルの世界の存在を意味する概念があります。
一方、私の体験上の知見として、瀕死体験や接近する死の気配のもたらす、私たちの身体的生命の終了後の世界への〈越境〉の実感があります。これは決して私特有の個人的実感ではなく、あるいは、たんなる俗説としての迷信でもなく、ただ、物的対象としては捉えられない世界の存在感です。
それを上に引用した科学領域の専門家でさえ、素粒子が「〈心を持って〉ていて、人の心を読み取って〈行動〉する」と述べている認識があります。
この俗世界と最先端科学の両方からの同類の認識の発生に、私は大いに関心を注がされます。荒っぽく言えば、世界の両端で同様の見解があるのなら、その間も、ほぼ同様な見方が通用し、いわばそれが共通認識としてよいだろうとの状況です。
「エソテリック」という観点
本稿の作業とほぼ同時平行して、私は兄弟サイト『両生歩き』に、「エソテリックシリーズ3部作」の最終巻の「訳読」を掲載してきています。その最近版に、「宇宙的気付き」とのタイトルの記事があります。
もともと、この「エソテリックシリーズ3部作」は、いわゆる科学的主流知見の寸足らずな見解を、歴史的にも思想的にも深化させた見解を総覧したシリーズで、すでに2巻は同サイトに翻訳済みです。したがって、いわゆる現在の主流見解に限界を見出し、対抗言説を求める向きには、必読の書のひとつと考え、その訳読を進めてきているものです。
そうした一連の議論の中のこの「宇宙的気付き」では、今日、ニューサイエンスとして扱われている分野を主体に、たとえば上記のような「あの世」をはじめとする、その超自然的の世界へのいっそう詳しい知見のさまざまが展開されています。
そうした議論は、上記の「心・あの世」、「氣Qui」、そして「越境」などなどをはじめ、他の多様なポイントをほぼ網羅する詳細にわたっています。