2.3 「宗教」という独自領域

 

「宗教」と「超然現象」

私は、もしそれが何かと問われれば「無宗教」と答える、宗教について一線を引く部類の人間です。

浅い教養程度では、聖書や仏典の片りんくらいはかじった経験はありますが、教会やお寺に意図して通ったこともなく、日常生活で接する時折の布教への誘いも、無碍に断り続けてきています。また、家族関係において“葬式仏教徒”程度には伝統的しきたりには従ってきています。

そういう人間ではありますが、既述のように、「科学」と「非科学」という二分領域の後者を考えるにあたって、避けることも難しくそこに登場してくる、広く「宗教」とよばれる分野の存在を、否定したり無視したりしようとするものではありません。

むしろ、積極的な考慮の対象とし、できるなら、科学の辺縁部くらいには入らないものかと試みてきています。たとえば、科学が排除するいわゆる「超然現象」と大ぐくりにされる、「魂」とか「心霊」とかと扱われるあたりの事柄を、兄弟サイトの「両生歩き」では、あえて「霊理」と呼んで、従来の「おどろおどろしい」扱いに新風をあてたく試みています。

さらに、私は若いころから山登りが好きなのですが、年齢を加えるにつれ、その好みの味わいが変わってきています。つまり、若いころの達成マインド一途なスポーツ登山的なものから、年食ってからは、健康ための運動の一環としての山歩きを一方に、他方は、山に入って、下界とは違った何か異次元な精神的体験を期待する傾向へと変じてきています。そしてそうした「異次元な精神的体験」に実際に出会った時、やはり、そこに手掛かりとなってくるのは、この科学が排除する独自領域の働きです。

こうした私の受け止めをイメージ化したものが、この「フィラース Philearth」サイトのHPに掲げているいくつかのスライド画像です。ことに、山にかかわる画像が多くそこに見られ、また、短いコメントがそれに付されています。

このように、私は伝統的に「宗教」として扱われてきている事柄については、俗習慣上ではそれと一線を画してはいますが、それをも含む、いわゆる「超然的分野」については、むしろそれを、これからの人間のニュー・ホライゾンとして、積極的に対象にしてゆきたいと考えています。

ちなみに、上に触れたように兄弟サイトの「両生歩き」では、すでにいくつかの角度――たとえば、新学問のすすめMOTEJI 越境レポートパラダイム変化:霊性から非局所性へ“KENKYOFUKAI”シリーズ――において、その試みを行ってきています。

 

「超然的分野」に踏み入るために

こうした「超然的分野」について、それを開拓してゆくにあたって、私は以下のような、思考のモデルをもって、その試みを行ってきています。過去の記述と重複しますが、それを可視的に表したものが下図です。

そこで、この思考モデルを説明しておきます。

まず、私たちが、地球上において、人間として認識している世界を、緑枠で囲んだ世界とし、それを「地球認識界」と呼びます。

その「地球認識界」で、私たちは、左側の灰色立方体が示す、各自の「認識容量」をもって、世界を受け止めています。

すなわち、私たちは日々、自分自身を、自己という「個人性」と、その一方、個人にはままならぬ「社会性」という二次元要素が複合した自意識を通じてそれを認識しています。つまり、この「具体性(個人度)」と「客観性(社会度)」による認識の広がり=面積に、「思考力」という深さを掛けた結果の体積すなわち「認識容量」という、いわば人としての度量を持って生きています。

こうしたある「度量」をもった存在が、さらに、人生体験という、時間的、地理的「移動」(緑矢印)を通じ、その「認識容量」を増加(黄緑部分)させ、より大きな「度量」を自身に着けてゆきます。なお、私は、この「移動」による認識の増加のプロセスを「両生学」とよんで、一種の研究対象としてきています。

すでに述べたように、この「移動」を、あえて意図して行えば、自分をサンプルとする「人生実験」という意味を持ってきます。そしてそれは、この第2部のタイトル「人生という実験」に掲げている通りです。

以上が、私たちが、この世すなわち地球上で、生きているうちに体験できる認識の動的世界です。

さて、以上の動的な認識過程のこの先への延長、ことに「《し》という通過点」を越えた先なのですが、それはもはや、生身な命を継続した人間としての「人生実験」では不可能で、「思考実験」として延長するしかありません。それが、二つの青矢印で示す、“あの世”や宇宙への無限大な移動です。そして、その結果に達するものが青枠で囲む「宇宙認識界」です。

そこでもし、地球も宇宙も、統一された同じ《摂理》で支配されているとすると、地球上で実行される緑矢印の「移動」にも、宇宙界で実行される青矢印の「移動」にも、同じ原理が働いているはずです。もちろん、私たち人間の大半は、この宇宙界への「移動」――一部に「宇宙旅行」という微々たる試行はされていますが――はまだ実行できておらず、その結果を実感してもいません。しかし、この同一《摂理》との考えを適用すれば、思考上でのその延長は可能であるわけです。そして、この延長した認識範囲を《宇宙認識界》と呼べば、この《宇宙認識界》と《地球認識界》との間の違いを、未知ではありながら、想定することはできます。

よって私は、下の数式、

《宇宙認識界》-《地球認識界》=X

の「X」のなかに、いわゆる「宗教」分野も含まれると考えます。

そして、この「Ⅹ」分野に、現在、もっとも踏み込んでいっている分野が量子理論と見、もちろん将来、第二の、あるいは第三の量子理論が出現してくると想定しています。

 

ある「キリスト者」の生き方

最近、私は、東京築地の聖路加病院の院長を長く務めてきた、故日野原重明氏の遺書籍『生きていくあなたへ』を読みました。その「はじめに」に以下のような表現があります。

105年という人生の中で、いつも私を支えてくれたのは「言葉」でした。

新約聖書ヨハネによる福音書に、/「初に言〔ことば〕があった。言は神と共にあった。言は神であった。/とあります。

私が言葉によって支えられてきたように、迷い傷ついたあなたの心へ、私の言葉が届くことを願っています。

『生きていくあなたへ』(幻冬舎文庫 2020年)pp. 6-7

まさに「キリスト者」そのものの遺言で、私にはとてもとても、こういう言葉は、たとえ永遠の旅立ちを前にしていても、口にのぼってはきません。

氏の両親はキリスト教徒で、父親は牧師でした。そうした氏が、父親の影響を受けるのは当然で、7歳で洗礼しています。

氏は、生涯の師と仰ぐオスラー博士の言葉を取りあげて、こう述べています。

医学とはサイエンス(科学)の上に成り立っているアート(芸術)である。

このウイリアム・オスラーの言葉は、生涯を通じた、医師としての僕の信条です。

同書 p. 80

同じ科学に対する姿勢において、私の信条は、これまでに述べてきたように、この信条とは異なっています。

そして本書『生きていくあなたへ』には、亡くなる六カ月前に自ら語った最期のメッセージが掲げられています。その一部ですが、こうあります。

長生きをしなければね、/感謝がこれほど絶大なものであるということは/考えられなかったね‥‥‥/何とも言えない‥‥‥/

聖書は「苦しみを感謝しなさい」という。/若い時には私にも難しかったね‥‥‥/苦しみの連続がある中で/感謝するっていうことは、/異様なほど困難ではあるけれども、/にもかかわらず。

このことは「にもかかわらず」。/私の人生ではいつも、/「にもかかわらず」っていう「言葉」が/「困難」にくっついている。

困難にもかかわらず、/やっぱり感謝しなくちゃならない。

〔中略〕

感謝に満ちた気持ちで、キープオンゴーイング。

同書 pp. 232-33, 248

この本には、聖書からの引用が随所にあげられています。私には、その引用の意味は、おそらく、氏が示唆する深みをもっては、くみ取れていないでしょう。

そういう意味で私のアプローチは違うのですが、この最期の言葉である「感謝しなくちゃならない」と「キープオンゴーイング」〔進み続けよう〕には、にわかに同感できるものがあります。

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