第2章 情報の外の〈情報〉
情報と〈情報〉
前章では、メタ旅の「メタ」とは、「現実のもつ〈情報〉度の高い領域」ということを述べました。では、そこに言うこのカッコ付きで表される〈情報〉とは何なのでしょう。
もちろん今日、私たちの身の回りはもう、どこを見回しても、カッコなしの情報、情報で埋め尽くされている感があります。
すなわち、そこで言われる情報とは、IT産業が扱っている情報のことで、IT装置が扱えるデジタル化した情報のことです。
しかし、私の言う〈情報〉とは、そうしたデジタル情報を除いた〈情報〉のことで、そこでデジタル情報との区別のため、カッコ付きで〈情報〉と書き表しています。以前では「汎情報」と書いたりもしました。
そこで、この〈情報〉には何があるのか、例をあげてみると、私たちがもっている、好き嫌いだの、親しみだの、そもそも何々の感じ等々といったものです。つまりそれらは、デジタル化不可能な〈情報〉です。
言い換えれば、私たち自身は、身体といった物質と、心や精神といった非物質との結合体として存在しているのですが、その心神の側を成すものを〈情報〉と呼ぶわけです。
そして、私たちの毎日の暮らしの中身を考えてみれば、そのデジタル情報が私たちのほんの一部でしかないことは一目瞭然です。
ただし、他方の〈情報〉自体には何があるのか、その全体像は今もってよく解っておらず、多くの謎を含んでいます。だからこそ、今後のその解明に大いに期待が置かれているのです。
本稿は、この未解明の〈情報〉の言わば森に入って行こうとするもので、しかもその「森」とは、地球ばかりでなく、宇宙にさえ根付き枝を張る、異次元の木々による深い深い森です。
〈情報〉の森への入り口
私はこの2月20日で、76.5歳となりました。この数字は、時の経過とともに留まることなく大きくなり、そのうちに間違いなく、決定的な数字、すなち永遠の旅立ちに達し、その時、停止するのでしょう。ただ、ならばその時のその数字は、90なのか100なのか、それとももっと大きいのか。つまりこうした年齢とは、いかにも現世的な数字でありながら、実は、宇宙における地球の自転や公転を根拠とした尺度で数えられているのが、何とも現生離れして、宇宙的です。
私はもう幾年も前から、この永遠の旅立ちのことを「越境」と受け止め、そう呼んできています。
一方、ある種の極めてドライな常識では、この永遠の旅立ちについて、それは帰らずの境を越えるとして、いったん越えればもう戻ることはできず、それでもって人のすべてが終了すると考えられています。つまり、人生はその先へと連続して伸びてはいないとの考えです。
しかし私は、そこで終わるものは人間にまつわる片側、すなわち物質的な側面のみで、上に述べた〈情報〉については、そこで終わってしまうものではなく、続いて延長されてゆくものと考えています。伝統的な言い方では、いわゆる来世の世界があって、越境というそこへの旅立ちです。
そのようにして、宇宙的なカウンターで表示されたその数値を境に、私たちは次の世界へと旅立ってゆきます。それを「死後」と呼ぶか「来世」とよぶか、それとももっと異なった何かか、名称上はいろいろあるにせよ、もし、その越境が絶対的な終りではないとする限り、そこでひとつ確かなことは、その越境は上でいう〈情報〉の世界への越境ということになるのではないか、と私は考えています。
つまり、人はその一生の最期を境に、この〈情報〉の世界に旅立ち、完璧なメタな世界に入って行くということです。
「情報度」という概念
かくして「越境」してゆくその先の「メタ世界」について、情報という観点では、デジタル化されうる情報を超える何かがあります。それはまず、情報度の高い領域と表現できるでしょう。ただ問題は、その「情報度」という概念の中身は何かということです。
たとえば、上記のような「越境」手前の現世においては、それは広く、人間に関する、ウエットな、あるいは情緒的な分野として、あいまいながらには扱われてきています。
というよりもその領域は、もっぱら芸術が専門とするところであり、文学、音楽、絵画、彫刻そして映画などなど多彩な分野によって生き生きと表現されてきています。しかもそれらが扱う範囲は、それこそ限りがなく、いたずらな定義なぞはかえって不粋で、まして、それによって排除されるようなものでもありません。
あるいは、芸術以外では宗教とよばれる領域があり、そこにおいても扱われてきています。この世界では、芸術と重なり合う部分もありながら、芸術のように作品として表現するには困難で、かつ、それを託すべき技巧的媒体もない世界が扱われています。そうした世界は一概に言って、人生に付随するとてもネガティブな事柄を中心としていて、一般に信仰と呼ばれる行為をもって、その対処が行われています。
さらに、上記の芸術、宗教のいずれでもない、科学のうちの数学という分野があって、それが専門的に扱う、特殊かつとみに客観的な分野があります。そしてこの数学は「宇宙の言語」とも呼ばれ、それは人間が宇宙を理解する強力な手がかりとして活用されています。
そして、この数学を駆使し、かつ、人間のもつ直観的発想からなる体系を武器とする物理学と呼ばれる世界があります。それは一般に、その内の理論物理学が先導する仮説を、実験が証明するという方法をもって、かずかずの自然現象を解明してきています。そしてこの一世紀ほどで、量子物理学とよばれる分野において、超ミクロ世界の現象の探索と近年の精密計測技術の発展から、輝かしい発展を見せています。ことに、物質の根源に関し、それが典型的客体であるとの従来の認識が改められ、もはや主体と連結した一種の情報と呼びうるものとの理解へと到達しつつあります。
このように、本稿で〈情報〉と呼ばれるメタ世界は、上述の、芸術、宗教、そして量子論の三分野をふくみながら、それで全てではないもっと広い世界を意味し、それは下図のように模型化した表現は可能です。しかし、その範囲は、下図では点線の輪郭が示すように、その境目は不明かつ、少なくとも現在の私たちにとっては限りがないものです。
〈情報〉という人間性
私は70代も半ばを過ぎた人間で、いわゆる情報化時代には、息を切らせながらなんとか遅れをとらんと奮闘を余儀なくされている世代です。そういうほとんど過去の人間でも、このデジタル情報に希望を置くのは、そのフラットな伝搬力と反権威性です。それがあるからこそ、なんとか努力を重ねながら、この新潮流を受け入れてきています。
そうしたデジタル世界のなかで、しかし、確かな危惧を抱かされることがあります。それは、デジタル情報が実に便利であるがゆえに避けられない、そこに交わされるデジタルに簡素化され過ぎたメッセージのやり取りです。言い換えれば、ハンドルネームの背後に隠れて発射される主の顔のない《デジタル弾丸》です。
それは、今のアメリカ社会に蔓延している“ガン武装主義”のように、今日的に変貌した変種の“民主”主義のデジタル版です。そしてそれは、ネットを通じ、容易に世界に急速に拡散されています。
そしてその《デジタル弾丸》は、日常の言論世界で、文字通り機関銃のように撃ちまくられ、容易にデジタル弱者を射殺しています。
そもそも、弾丸に込めうるのは、あらゆる温かみとソフトさを取り除いた、冷酷な破壊エネルギーのみです。《デジタル弾丸》に託されるのも、その断片化されたメッセージに込められた歯切れのよい見解の反面、それに伴う「冷酷な破壊的パワー」です。
上図のように、ほんらい〈情報〉とは、デジタル情報をほんの一部とする、はるかに大きな世界です。ただそれはそうであるだけに、つかみどころが難しい特徴をもっています。
私のメッセージは、たとえデジタル化されても、長文となってしまうのが欠点です。簡略に努めようとはしているのですが、ひとつの全体性を表わそうとすると、どうしても長くなってしまいます。
人間にまつわる事実は、こうした《デジタル弾丸》のように、簡素化で十分役立つものだけではないはずです。やや煩雑でも、もっと広い、実情を十全にくみ取った情報の世界が開拓されるべきだと真に思います。
「スマホ地図」と紙の地図
前章で触れた地図の話にもどれば、地図とはもちろん地理的な情報をその目的に応じて描いたものです。今日、そうした旧来の紙上に表されていた地図情報がデジタル化され、山歩きの場合でも、スマホで容易に検索、表示されたり他情報と組み合わされたりして、いまや必携の山道具の一つとなっています。実際、もう紙の地図なぞ持参する意味もなくなっているかの感すらあります。
ただ、その最重要な機能である現在位置表示に関し、それが便利過ぎるがゆえに避けられない落とし穴があるようです。というのは、私のように、若いころから紙の地図――初めの頃は国土地理院の五万分の一地図でしたが、後年になって二万五千分の一とより精密になった――に親しんできた者にとって、自分の現在位置をスマホ地図が容易に教えてくれる今日の山歩きは、せっかくそこにまで行きながら、人と自然との間の交流の決定的な機会を奪っているのではないかと感じています。
つまり、むろん地図を携帯する第一の必要性は、安全な登山のためです。確かにそれは、デジタル地図で正確に果たせます。しかし、それを紙の地図で実現しようとする場合には、「地図を読む」と表現されるスキルとその習熟が欠かせませんでした。
つまり、山の中で自分がいる地点が、その地図上のどこであるのか、常にそれを正確に把握し続けなければ、自分の実際の位置を見失い、危険や誤りの第一歩を踏み出すこととなります。
そういう自分の現在位置を得るには、その都度、自分の周囲で確認できる地形や風景が地図上に表示されているどれに相当し、またそれがどことするなら、自分が体験しているそれらと矛盾なく合致するのか、そういう考察の連続によってです。それは、歩きながら刻々と変化してゆく周囲の様子を常に観察し取得する行為なくしてありえません。
いわば、足での登山だけでなく、頭での登山です。
しかも、その周囲の様子とは、たんに地形に限らず、そこに見られる木々や草花、土や岩の種類、そして遠方の景色など、まさしく自然そのものの在り様すべての観察より得られるものです。しかもそれを、なんとなくではなく、意識を通じて意図的に確認する。それはまさに自然と自分との主体的交流そのものです。
これを、たとえば人間同士の初の面会の場で、スマホを頼りに相手に接しているとすればどうでしょう。それはいかにも失礼でぶち壊しな行いですし、そこで何を失っているか、容易に想像できます。
こうした交流は、一面、面倒なことですが、そうした自分の全感性を通じてその観察を常にしているからこそ、あるいはそうした術を身に着けているからこそ、山がもたらしてくれている、他では決して代えられない実感を獲得できるのです。ましてやその実感を通さずして、山の自然が人間に語りかけている深淵な気配やささやきを感じとることなぞ、ありえないでしょう。
それをデジタル地図を使えば、そうした交流が皆無でも、現在位置が即座に分かり、まずは“安全”な登山はできてしまう。あたかもナビを使ってドライブするように、そこに表示される指示に従っていれば、目的地に迷うことなく到着できます。果たしてそれが、わざわざその山に行ってその山を体験することの狙いを満たすこととなっているのかどうか。
メタ旅にはげむ
人生を生きるとは、この山歩きの例を引き合いに想像してみれば、そこに、デジタル化できない〈情報〉の感じ取りを抜きにしては、現在位置や立脚点の発見はもとより、せっかく人間として生まれ、そういう機会を与えられながらも、そこで出合うだろう社会や自然や世界の醍醐味の多くを見逃してしまう、そんな結果にもなりかねないのです。
そういう意味で、人生の山歩きをスマホ地図に頼り切らない、つまりその〈情報〉感知の感度を上げ、そこからの摂取の術を磨き、明確な自分の知識として自身に還元してゆくメタ旅化にはげんでゆくことは、人生行路の上でも生命の行方の上でも、果たされて充分な方向だろうと思われます。
ではこの章の結びに、HPに掲げてあるスライド写真を、再度、紹介させてもらいます。それらの写真は、ここでいう〈情報〉を映像として切り撮ったものです。もちろん掲載のそれらは、デジタル化された情報に変換されたものですが、それが存在したその当の現場で撮影者の感性に捉えられていたものは、それこそがまさに〈情報〉であったものです。