B 「移動」という客体的体験
以上は「見え方」という主体的体験に焦点を当てた考察でした。そこで次に、「移動」という客体的体験にもとづく見解です。
上で触れられていた「西洋と東洋の融合」の観点は、先では別の今日的断面において現在の世界の閉塞を克服する観点として取り上げました。しかしこの「《越境》観の展望」の第二の議論では、地理的あるいは空間的〈移動〉という客体的体験の面を取り上げます。
実は、この観点での議論は、すでに9年前、「東と西という座標軸」とのタイトルの下で、『両生歩き』と言う兄弟サイト名称に象徴される、地理的移動をベースにした観点で論じました。
ただその9年前の議論の中では、まだ《越境》という発想や着眼は現れておらず、自分の地理的移動という体験の結果に到達してきた、人間文明上の「東西の融合」という考えを述べています。
そしてそれを、以下のように結んでいます。
‥‥こうして出来上がる立体空間とは、キリスト教的絶対世界観と仏教的輪廻世界観とを融合させた、両義的世界観が描き出されてきます。
私は、この両義的世界を、私たちの現世界の3次元空間に時間次元を加えた四次元世界のその先に想定される、宇宙的な《未知多次元世界》と名付けて、次回の講義のテーマとしたいと思います。
言わば、この《未知多次元世界》を“擬人化”すればいわゆる神となり、それを科学として追究すれば遠大な宇宙物理学となります。
(略)
想うに、この世界こそ、未来の「大航海時代」を想像させる次の「移動」への海図です。
そして、この「次回の講義」において到達しているのは、前回のように、やはり『納棺夫日記』を題材にして展開されている、その自分の「移動」の生物的到達点として述べられている、以下の視点です。
つまり、臨終を何かの終わりと見るのでなく、宇宙的な生命のほんの一時期を終えて次の時期へと移動するその通過点ではないかとする、想像上の見解です。
もしそうだとするならば、それは悲しんだり忌み嫌うどころか、壮大な《出発》を意味する、なんという“楽しみ”ではないでしょうか。
そこで、以上のような意味合いで、死を境として終了するそれまでの地球上の命を《固定生命体》と呼び、それ以後のそれを《移動生命体》と呼んでみたいと思います。
もちろん、後者の《移動生命体》は、「さわりなく、はかりなく、すがたもかたちもみせぬ」生命体であって、4次元上の現生にある私たちの知覚の範囲外の生命体です。少なくとも科学的には、それは観測もされず、測定もできません。
しかし、思い起こしてみれば、私たち日本人は、子供時代より漠然と聞かされてきた仏教思想により、それを信じるかどうかは別として、「来世」とか「霊魂」とかとそれらを日常的に「擬人化」して呼んで、死後の世界やこの《移動生命体》に、それとなく身近に親しんできたのではないでしょうか。
このように、私の《越境》仮説の立証という脈絡において、「移動」という客体的体験をもって、以上のような物的移動の延長上の《越境》がありえ、また実際にそれを体験してきたということです。
以上、ここでは客体的体験の具体事例は過去の既述にまかせ、それを総合したまとめのみを述べています。そうした諸体験の一定の積み重ねの結果、それらが総合して持つ意味が見えてきています。それが、以下に述べる「異次元の健康」の世界です。
C 「異次元の健康」=「生」と「死」の交差
上記引用の出所である「私共和国」には、そうした「光」現象に連なる体験に続き、さらに昨年の末も押し詰まった28日付で、こんな記録があります。
そうして〔暑さの中を10キロはじって〕、ほぼ完璧にスタミナを使い果たしてゴールしたところ、クールダウンしている際に、また、あの「カメラの眼」を体験する。
どうやら、なんらかの身体的リミットに近付けば近付くほど、局地視野から非局地視野へのスイッチが可能になるようだ。
ならば、こうして「走り瞑想」が可能だとすると、それは、「ポータル」ということか。
言い換えれば、それは健康のためのエクササイズを通り越して、異次元の健康への「ポータル」つまり「入り口」になっているということか。
「異次元の健康」なんだ。
この「異次元の健康」を、ポジティブな方向でとらえれば、健康の極致にやってくる身体状態を超える精神高揚現象と見ることが出来ます。
しかし逆に、それを身体的リミット、つまり、ネガティブな方向においてとらえれば、ぎりぎりの疲労状態にある、一種の危険、まかり間違えれば「死」との背中合わせの状態とも言えます。
ここではそれを、異次元の健康への「入り口」と思念的に言っていますが、身体的にはまさに限界状態であるわけです。
すなわち、その「カメラの眼」なり「光」あふれる光景なり、それはもう〈「生」と「死」の交差〉と言ってよい状態かも知れません。
言い換えれば、本当の死にまでは至っていないにせよ、すでにそういう部分的死、あるいは生の何ものかへの置き換わりが始まっている状態とも言えそうです。そういう意味では、《越境》は、もう、体験しつつあるのかも知れません。
あるいは、そこまで行き着いた「はじり」がもたらした、「生」と「死」の区別が混沌とした、シュレディンガーの言う「主体と客体が一つのものである」境地に連なる一端を体験していることと言えるのかもしれない。
まとめ
以上、日常の三つの観点――A 主体的体験、B 客体的体験、C 「異次元」の健康――において、それぞれに《越境》がそれなりのリアリティーをもって体験されている事例を述べてきました。
むろんこうした諸体験は、一般にはことに意識されることなく、取り上げられても旧態依然な宗教意識や、あるいは、たとえ合理性の視点をもって見ようとしても、せいぜい疑似科学程度に扱われてしまうのが常でした。
それが、近年の物理学、ことに量子物理学の進歩によって、「主体」と「客体」の間に存在してきた深いギャップに科学的な橋が架けられる状態にも至ってきており、それこそ、「僕って結構、量子的ではないか」と思ってみたりすることが、絵空事ではない行いにすらなっています。
こうして、私にとっての《越境》とは、どうやら、新たな世界への足の踏み入れと考えてもよいような、〈越・物的人間〉へと連なって行きそうなポジティブな思いを味わっています。