私はこれまで、生活者が身を挺して体験している「のっぴきならなさ」を考察の重要なキータームとしてきています。今回は、連載〈「MaHa」の学的最前線〉の最終回として、この「のっぴきならなさ」が提起している、そこに潜んでいた学的な三領域にわたる意味を述べて、この一連のテーマのまとめとします。
前回では、松岡・津田対談『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』の最終章である「第11章 神とデーモンと変分原理」を取り上げ、そこに見られる「主知主義による見過ごし」を指摘しました。
そもそも、この〈「MaHa」の学的最前線〉という連載の眼目には、「主知主義」が見過ごしやすい「〈選民〉か〈俗民〉か」あるいは、フラクタルなスケールを変えてみ視点の有無といった、“分水嶺”を置いてみる観点があります。そしてこの観点は、連載(その1)に、以下のように提起されています。
この〈選民〉か〈俗民〉かとの分かれ目は、当人の主観的な意識とは無関係に、その観察者を観察する目を通すことによって、学の基盤の根本的なずれが浮かび上がってきます。以下、〈選民〉と〈俗民〉という視点のずれという観点と共に、その「照合」作業に入って行きます。
そうした「視点のずれ」を「照合」しながら気付くのですが、松岡さんにおいては、その「見過ごし」――それがゆえにその第11章が事実上の絶筆とならざるをえなかった――を指摘できるものの、津田さんにおいては、数学の世界の「変分原理」の取り上げをもって、フラクタルなスケールの変化をとらえる数学的な見きわめが示されています。
これはまず私見ですが、主知主義を維持する足下では、脳というその主知主義の主座臓器を支えている、身体インフラの正常な機能が不可欠なはずです。ですから、その身体インフラの不全の看過あるいは軽視は、端的に、自滅行為であるわけです。もちろん、その主知情報がその自滅以前にアウトプットされていれば、その足跡は書物なりデジタル情報の形で、遺産としては残ります。
しかし、ここにフラクタルなスケールの視点を持ち込むと、その主知主義のなす網羅な観点が、固定された尺度を前提とした一種の君臨、あるいは、政治的タームを用いて言えば、民主主義を嫌う専制主義の立場との親近性を見出してしまうわけです。
また、以前の比喩を用いれば、主知主義という壮大な物語を上映している映画館に、電力供給というインフラが断たれてしまえば、ほんのそれだけでその映画館はただの暗箱と化し、その物語はあえなく消滅してしまいます。まさに「健全な精神は健全な身体に宿る」なのです。そうしたもろさに対比される人間の働きを、津田さんは、数学の世界の不定性――解が得られない――に見出し、それを複雑性という新学問体系の「カオス」という概念で捉え、それは究極的には、「解釈」すなわち「心」をもちこまないとその世界は成立しえないとして、「数学は心である」〔『心はすべて数学である』p.16〕とさえ述べています。
そこで、この「解釈」が必要――数理的には仮定値を入れてみる――という「のっぴきならない」要請が、どのようにして、三つの学的領域にからんでいるかですが、その通底関係を牽強付会に抽出してみると、こうなります。
「のっぴきならなさ」とは、数学的には「変分原理」、生物学的には「動的平衡」、哲学的には「矛盾的自己同一」な意味に連なっているということです。
「のっぴきならなさ」の数学的扱い
「のっぴきならなさ」とは、生活者が生きる上で不可避に出くわす極めて複雑な諸懸案――多くは直ちの決断を求めている――について、学的パワーに頼ってその回答をえようにも、その懸案の学的な立証が未成な場合、学者は時間や資源を投入してその解決に当たれます。しかし、生活者にとっては、その立証が完了するまで待ってはいられないからこその懸案です。つまり、生活者は、とりあえずでも判断を出し、その場をしのいでゆかねばならない「のっぴきならなさ」にさらされているわけです。
ここでフラクタルな視点移動を行ってみると、こうした違いは、現行の資本主義制度下における生存基盤の強弱として、生存の現実性に潜むリアリティーの違いが科学の厳密性の名において排除されているという、そうした実存条件上の差異の問題が見えてきます。
そこでですが、こうした体制上の、端的に言えば「生きる人間ならでは」の問題を、科学のまな板に載せようとするものが〈複雑性〉と呼ばれる体系で、ことに数学的には、それは汎関数と代置され、それへのアプローチは変分問題として対処されています。
つまり、この「生きる人間ならでは」の、複雑に絡み合った多くの関数式を解く場合、そこに一つの確定した関数を入れて複雑さの度を一段階下げてみることです。ただし、それでもまだ汎関数は不定で、それを定めるためには最終的には、一定の「解釈」と言う「初期値」を代入――これもとりあえずにそういう一例に――してみることです。この「解釈」を入れるということは、もうその段階で、既存の数学の枠組みから異なった分野に入りこむことで、そのようにして、ことは人間がなす判断の問題となっているということです。つまりこれこそ、私たちが生活の末端での「のっぴきならなさ」に際して求められているのと同等な行いです。
俗的に言えば、学者にとって、彼を奮起させる要請はその学問の中の課題です。それが生活者にとっては、毎日の生活上の課題です。したがって、学問にとってその解決の体系があるのなら、生活にとってもの解決の体系はあるはずです。ただそれが、多岐にわたって複雑であるわけです。
こうした複雑性の問題は、それを津田さんは、3000年前の中国の思想家、荘子の思想に同一な考えを見出しています。長い引用となりますが、その著書『心はすべて数学である』のエピローグに、以下のような、日本の物理学者の考察の足跡を通じて指摘しています。
長岡半太郎の「荘子」観
『心はすべて数学である』p.196-7
日本は西欧におけるキリスト教のような強烈な葛藤を生むものが科学のバックグラウンドにはなく、本当の意味での自然との対決というものもないので、欧米人が作ってきた自然科学や数学は、逆にそのままでは受け入れがたいところがある気がします。もう明治時代から100年以上は経っているし、私たちは今ではごく普通に自然科学や数学を学校教育で習っているから不思議には思わないかもしれませんが、かつてはそうではなかった。日本人として自然科学を学ぶことに葛藤があった。それは長岡半太郎や朝永振一郎の科学者人生にも大きな影を落としていました。
荘子の「万物斉同の原理」と「因循主義」の2つを指して、長岡半太郎(1865‐1950)が「合理的だ」と考えたのは、私は偉いと思います。長岡は大阪大学の初代総長を務め、東北大学(理科大学)の教授人選も務めた、量子力学の初期の原子模型を作った人物ですね。彼はそもそも西欧人と比べて自然科学の歴史のない日本という国にいる自分が、物理学をやっていけるのかと深く悩みました。東京帝国大学に入るも1年間休学して、漢籍など東洋の文献を読みあさるんですね。そして、例えば荘子は共鳴という現象の実例を示したり、エネルギー概念の説明などをしていることを発見する。あるいは「空が青いのは空が遠いからではないか」という、19世紀に入ってから正しい説明がなされた科学的発見をも言い当てているということを知る。そして東洋人にも西洋人と同じような合理的精神があるんだから、日本人にも物理学を研究できると自信を得て、物理の研究にまい進したのです。
そうしたバックグラウンドがあったことも大きく影響しているのでしょうが、一見、ぜんぜん科学的でないように思える荘子の「因循主義」〔注記〕を肯定的に捉えてみせる。「因循主義」は下手をすると「因果関係なんて全然ない」というだけの、まるで妥当性のない主張に聞こえたりしますね。ところがそうではなくて、因果関係があるように見えても、それを瞬時に因果関係に回収することが科学的に正しいとは言い切れないと考える。因果では捉えきれない領域にこそ、もっと深い科学の可能性があるのではないか、それを追求する姿勢、あるいは思考の方向性こそが実は科学的で合理的なのだ、長岡はそう言うわけです。
いま科学が依拠しているものは確かに因果関係を式に書いて解析する、あるいは物事には区別があると考える思考法です。どちらかと言えばコップと水は同じものではない、という区別を一生懸命やっているわけだけれども、そこから離れ、さらに大きな原理原則を求めようとしているところにこそ合理的精神がある。一見、この「因循主義」というのは反科学的にも見えるが、そうではない。むしろ新しい科学のパワーがこの考え方には備わっている、私も長岡と同じくそのように思うのです。
〔注記〕「因循主義」:これは、自然に〝依り従う〟ということ、つまり、人間的な因果を捨てて、自然の法則に身をまかせるということ。これを津田は、「これは方程式で表される決定論に従いながらも、結果は振る舞いの予測ができないカオスの複雑な性質を言い当てているようです」とコメント(p.122)している。
上に「のっぴきならなさ」とは「体制上の問題」と述べましたが、それはなにも、近代に始まったことではないばかりか、洋の東西をまたぐ問題でもあるのです。
「のっぴきならなさ」の生物学的扱い
生物学者の福岡伸一博士による「動的平衡」論によれば、命ある生体は、自らを自己組織して生成し続けており、片時も静止していません。そうした流動の平衡状態が生命体ということですが、そのように流動し続ける定まらなさとは、そのひとつの生命である側から言えば、「のっぴきならない」状態のさ中にあるということです。
この「動的平衡」論については、私はすでに「人生はメタ旅に向かう(7)」において取り上げましたので、そこでの議論の要所を以下に引用しておきます。
そこでまず、この「動的平衡」という生命科学の分野における画期的な生命観です。それは従来、未解明とは言われながらも、生命という実体に宿るメカニズムを前提とする発想を根底的に見直す生命観です。そして、生命を実在として定義することだとして、同博士はこう述べます。
池田先生〔後述する哲学者〕は、私の著作『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を高く評価してくれていた。評価は、この本が、生命を、存在としてではなく、実在として定義づけようとしている点に関してであった。これはちょっとわかりにくい表現かもしれない。生命を、操作的ではなく、本質的に定義しようとする試み、と言い換えてもよいだろう。〔中略〕池田先生は、このような〔操作的な〕議論のあり方を「生命を外部の視点(立脚点もしくは着眼点)から存在として見ている」だけだと批判する。生命の定義は、もっと生命の内側から、生命自体になりきってなされなければならない、そう言う。これが実在としての生命をみる見方である。『福岡伸一、西田哲学を読む』pp.12-3 【注:〔〕内は私(松崎)によるコメント。以下同じ】
この「実在として見る」との観点は、さっそくの私の「牽強付会」ですが、ここでいう「生命」を「私自身」と置き換えた時、「私自身の実在」と読み替えが可能で、これは私がこれまでの人生において、自分自身を見るにあたって取ってきた観点で、時にはそれを「生活者」と呼んだり、意味させたりもしてきています。ある意味では、そう理論を〈擬人化〉する技法でもあり、さらに言い換えれば、自らが現実に体験している情念と重ね合わせるとか、「同情する」とさえ言ってもよい発想です。そうした立脚点であり、出発点であり、そういう立場の維持です。
ここに用いられてい用語「生活者」は、冒頭に「フラクタルなサイズの視点」として取り上げている「〈選民〉か〈俗民〉かとの分かれ目」における〈俗民〉と同義語です。すなわち、上でいう「実在として見る」との観点こそ、「のっぴきならなさ」の生物学的扱いであるわけです。
「のっぴきならなさ」の哲学的扱い
この哲学的扱いについても、これもやはり「人生はメタ旅に向かう(7)」において「哲学する生命」との視点において詳述しています。そこにおいての要点は、上記の生命の定義――動的平衡の生命論――が、日本の生み出した孤高の哲学者、西田幾多郎の目指していた生命に対する考え方と極めて密接な相同性を持つことです。
ここでその議論の繰り返しは避けますが、ひとつの再録を以下にしておきます。
〔略〕ここからが私(松崎)の自論です。つまり、この西田の表現のうち、幾度も使われている「矛盾的自己同一」という語に私は注目します。
おそらく、上記の福岡の「効果」という語も、この語のうちの「自己同一」を意味している対応だと推測します。それを私の場合、ことに先に触れた生活者との視点で、この社会での矛盾にさらされて生きている人にとって、この「矛盾的自己同一」という自己認識は極めて重要な観点だと思います。つまり、自分が道具と化しているその「矛盾」にあって、その被造的な自分を含む自分をどう全体視し「自己同一」し、人間に回帰するかということです。
この乗り越えは日常的には容易ではありませんが、この視野拡大こそ、哲学がなせる使命です。
なお、この議論についての詳細は、「人生はメタ旅に向かう(7)」の「哲学的観点」のセクションに戻って確認していただきたいと思います。
以上、数学なり生物学なり、学の伝統をなす要素還元式の科学原理に、生物(その体現としての生活者)がその生命でしか成せない自己組織する働きを取り入れてゆくために、そこに「画竜点睛」するその最後の一撃を哲学が果たすという三つ巴の作用です。
かくして、〈「MaHa」の学的最前線〉とのタイトルのもと、9回にわたる連続議論に述べられてきたことは、「のっぴきならなさ」という語に収れんされている、生活者のみならずそれがさらに生命の実践であることの実相が、ただ生活者の暮らしにくさの表現であるに留まらず、数学、生物学そして哲学の三つの学問領域にまたがる、学たる世界の最先端の突破口を切り開いてゆく、洋の東西を越え、三千年の人間の歴史をも受け継ぐ、実に重要な着想点であったということです。
そういう認識の「山頂」での展望を得る時、私というひとつの生命が、この現実の世に実存する際、その〈自分が道具と化しているその「矛盾」〉をかかえて、それを「矛盾的自己同一」して乗り越えてゆく具体的手法として、《「MaHa」という自分実験》が構想されているということです。