人生はメタ旅へ向かう(1)

第1章 人生は旅なり
リアル旅とメタ旅

〈人生は旅なり〉とのことわざは世界共通のようで、むろん、いかにもうなずける文言です。

そこでこうして広く引用される旅を大別して、リアル旅とメタ旅と、二分してみます。つまり、地理的な移動という意味のそれを「リアル旅」、上のことわざに託されたような思念的な意味のそれを「メタ旅」と呼びます。

もちろんこの二つの旅は明瞭に分けられるものではなく、そういう二つの両端をもつスペクトルを成して、実際上は、二つの混合割合の様々な、個別な味わいを伴なって行われているのが通常です。

そういう中で、リアル旅の典型は一大商品群であるいわゆる旅行で、また、メタ旅の典型は多様な文芸あるいは最近の諸映像作品として表現され、そしてその終極バージョンは私たちの永遠の旅立ちです。

言い換えれば、フィジカル=物質的な旅からメタフィジカル=形而上的な旅という両極をもつスぺクトルです。そして、その甘酸っぱいバージョンが、自分探しの放浪の旅とでもなりましょうか。

ともあれ、人生が旅なのか、それとも、旅が人生なのか、その主客が往々にして交錯し合うのが旅の醍醐味であります。

旅好きな友人たち

どういうわけか、私の親しくする友人たちに、旅を人生の中心モチーフとしている人が多くいます。

ある人――Aさんとしましょう――は、頭の中に、いつも世界の白地図を広げているような人で、自分の人生は、未踏の地を訪ねることをもって、その白地図を自分色で塗りつくすことを自己ミッションとしています。そしてすでにもう色付けた国は130を越え、残す白色部分はほんのわずかのようです。

別の人――Bさんとする――は、Aさんほどの白地図主義者ではありませんが、やはり一種の世界網羅の野心を燃やしています。そしてその網羅の焦点は、各国の文化、社会、政治、歴史等々上の知識としての網羅で、いかにも博学です。若いころの放浪の旅の体験を土台に、Bさんの頭の中にはあまたな紀行録が蓄積されており、それが年々、新たに更新されていっているようです。むろんそれは知識だけではなく、具体的な人的関係もしかりで、しかもそれらが実見聞にもとづき、書物上の知識に限られていないところがミソです。

もうひとり――Cさん(正確にはカップル)――は、車(しかも軽)で世界をもう10年近くも車旅を続けていて(バイク旅時代も入れれば20年近く)、今時はやりの車中泊キャンプの国際版元祖のような人です。それは言ってみれば地続きで行く一筆書き世界地図なぞりで、すでになぞった国は百をはるかに超えています。そういう旅なので、いわゆる先進国を旅している間は困難は少ない――お金の問題は別として――としても、それが途上国にでもさしかかると、そもそも道路や社会事情が悪化するどころか、ほとんど命がけの綱渡りとなります。おまけにコロナ状況が降りかかってさえきて、予期も見通しも真っ暗あるいは真っ白な、たまたまの地での足止めを食らわされることとなります。

こうした三者はいずれも、人物としてはそうとうガッツな人たちで、大勢に足並みそろえることが根っから性に合わず、世界旅という自由を優先することを果敢に選んだ人たちです。むろん、誰しもそうしたいのは山々なのでしょうが、いかんせん、「暇とお金の鉄則」に君臨されてその選択がなかなか許されません。その点で、その壁を撃破する、こうした三者に共通している戦略が主に二種あります。

それらは、軽装備人生と、網羅への執念です。つまり、上記三人のいずれも子なしで共通しており、人生の大きな出費原因を――意図的かたまたまか――省いています。加えて、いったん旅人生を選んだ以上その道へのこだわりは半端ではなく、それぞれに好む分野の違いはあれ、いずれもその領域への徹底した網羅さは並み大抵ではありません。

ずぼらな旅人

さて、私の場合へと視点を変えれば、自分なりのぼんやりとした旅志向はあるのですが、こうした三者ほどの選択も徹底もありません。言うなれば、こうした達人たちのお供として便乗させてもらうとか、いいとこ取りのつまみ食い旅をするといった風な、おおいにずぼらな旅人です。

むしろ、私にとっての旅は、もっぱら平凡な自人生ながら、上の出費原因削減との面では「たまたま」側で同類で、かつ、いくつかの点でゆずれない好みや意固地さあって、それが生きる世界を狭めてきたことがあります。その当然の帰結として、おのずから社会的、地理的移動が避けられず、結果的な旅となってきています。

したがってそういう旅は、一種、もはやもとには戻れない旅とでも言ってよく、その分、その移動先の事情は右の左の言っているいる余地なぞない所与条件となります。こうしてもたらされるのが、異なった環境に生息する両生類的適応性です。そうした結果の複眼体験を私は「両生歩き」と呼び、本サイトの兄弟サイトのタイトルにもしています。そして、そこに述べた様々な考察をまとめて「両生学」と呼んできています。ただし、「学」と呼べる体系なぞなすものではありません。

以上はともあれ、旅の分類上では、リアル行為として捉えられる旅です。そこでなのですが、私には、この自身の旅には、結果的とは言え、「やむにやまれぬ」身の振り方といった、一種の不条理を負ったがゆえといったリゼントメントがあります。そこで、そうした苦味伴う旅に付随して発達する内面世界を加えると、それはおおいにメタな旅の雰囲気を帯びてくるものとなります。

ここで少々注記しておきたい点があるのですが、最近、世界に広まる(企業名も連れ添って)「メタ」と称されるIT技術の繰り出す疑似/模倣現実の商品世界があります。しかし私のいう「メタ」とは、それは、現実の疑似でも模倣でもなく、それに気付けるかどうかの感度上の問題はあれ、まさしく現実のありさまのことです。つまり、私の言う「メタ」とは、現実のもつ〈情報〉度の高い領域のことです。そして、その情報度の高い分野の一部はデジタル化が可能なため、上に指摘の新規商品世界と一見かさなり合っているようです。

それに加えて、年齢を重ねるにつれて意識せざるを得ない、いずれ不可避となる「永遠の旅立ち」があります。これにはしごくドライな割り切りもある一方、上の二つの旅のうちでもっともメタな旅であり、かつ、その理由も旅先も他との次元を異としています。だのでおそらく、多くの人は、この永遠の旅をここで言うメタな旅に加えることには馴染めないかも知れませんが、私としては、だからこそ、今日でももっとも手付かずな世界だと考えるゆえんです。

本稿はかくして、メタな旅に、こうした永遠の旅を連続するものとして加えた旅をこそ、真正のメタ旅であると考えています。そしてこうした考察の設定こそ、これまで私が漠然とそれを「越境」として捉えてきた、その決定的な境界についてアプローチしてゆける、有効な切り口になると考えています。

新たなテーマへの取り組み

このようにメタ旅を主題として、ここに新たな企画「人生はメタ旅に向かう」を開始し、あわせてそれを本サイトHPのメニューに新カテゴリーとして加えます。

これは、これまでの私の創作上のプロセスが、地理的移動を起点に、オーストラリア留学と定住、両生学(ここまでは兄弟サイト「両生歩き」に掲載)の組み立て、本サイト「フィラース Philearth」の開設、理論人間生命学へと発展してきた、そうした一連の歩みのひとつの集大成にもなるものかと展望しています。

そしてその集大成という意味は、リアルな旅がメタな旅へと〈移動〉してゆく、そのプロセスにも重なり合いかつその延長とするのものです。それは、取り扱う舞台が、物質的なものからそれを越えてメタフィジカルな非物質世界へと広がってゆくことを意味し、それは期せずして量子理論の開拓分野とも同期していて、とかく即物的視野に左右されてきがちの従来の世界観に新鮮な要素を加えるもののはずです。

そのようにこの新テーマは、「フィラース=愛地球」、脱地球、そして宇宙領域へと飛翔してゆく自然な経路となってゆくと信じるものです。

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