「局地性/非局地性」と「シスジェンダー/トランスジェンダー」

2021年6月12日付記事のように、量子理論のその特徴を、「エロチック」と呼んでも、あるいは、より広く「ロマンチック」と呼んでもいいのですが、そういう一対の要素同士の「共振」や「共鳴」が前提となっている領域や空間を、「非局地性(注)」という量子用語をもって、あらためて考えてみたいと思います。というのは、この語が、世界を根本的に見直す武器となる可能性を秘めているからです。

  • (注) 非局地性:事実上、無限の遠距離間で瞬時に生じる、素粒子同士が影響し合う現象で、数々の実験で立証されている。光速を越える速度は存在しないとする相対性原理の提唱者アインシュタインは、この存在を認めると無限の速度の存在を認めることとなり、それを奇妙な遠隔現象と呼んで疑問を呈し続けた。これは私の我流解釈ですが、そこで科学者たちは、この相対性原理との矛盾を解決できる特異な領域を想定し、それを「非局地性」と定義したと見ます。いかにも苦しい対応ですが、いわばそういう“入れ物”を作ったわけです。ともあれ、この「奇妙な」現象の存在は、変則的な形ながら、科学の範囲内で居場所を持つこととなりました私個人としては、自分の体験から、その領域や性質を、物理理論や数式をもってではなく、自分の直観をもって認める立場で、この変則的な形も一歩前進と見、ゆえに、その直観のもたらす領域を「非局地性」と呼ぶことに賛成で、それを取り入れています(特に私の特徴的な非局地性の考えについてはこちらへ)。ともあれ、この特別扱いが、今後、どのように発展してゆくのか、大いに見ものです。


最近の新発見

そういう「非局地性」について、その理解を発展させるに有効なある体験をしてきています。というのは、最近、私はある新しい一対の言葉を発見したからです。

それは、シスジェンダー(cisgender)とトランスジェンダ(transgender)です。この一対語は、いわゆる性的少数者論議に関する語なのですが、前者は性同一性障害――「心の性」と「体の性」の不一致――をもたない人一般の“健全”多数者のこと、後者はそれを持つ“病的”少数者のことです。つまり、性という人間の属性種別の最大の違いに関する、現実としても認識としても(上記のように「健全」「病的」といった)互いに相容れない立場や差別関係を意味する一対語です。

ところで、この cis- と trans- という二種の接頭語ですが、cis-は「こちら側」との意味をもち、trans-は「超える」とか「向こう側へ」とかの意味をもっています。たとえば、日本語の「この世」と「あの世」なら、cisworld と transworld といった語(そういう英単語は実際にはないようですが)になりましょうか。それほどに、此彼を分ける決定的な境界線を引く用語です。

そこで新発見のこの一対語を自分に適用すると、私はこれまでの生涯で、ずっとシスジェンダーでありえて、トランスジェンダという存在もその用語も知らないで――一種ゆがんだ断片知識は別として――過ごしてこれたわけです。ついでに表明しておくと、こうした用語の存在に気付くきっかけを与えたのは、老化に伴なう自分の性的身体機能の変化でした。そしてその変化につれ、「衰える自身」とか、逆に「それを認めまいと虚勢をはる自身」といった、リアルな葛藤――軽症ながら一種の「性同一性障害」――でした。

上記の発見をここに採り上げるのは、この「シスジェンダー/トランスジェンダー」という一対語と、「局地性/非局地性」という一対語が、まったく別分野の用語で、一見、互いに何らの接点を持たない同士でありながら、人間の認識を左右する言葉の機能として、相似的な役割を果たしていると考えるからです。

そこでこの「局地性/非局地性」という一対語に、さらに「シスジェンダー/トランスジェンダー」という別の一対語を対置させる理由ですが、その説明には、まず、二組の反対語同士の各語を正確に配置、対応させる必要があります。つまり、「シスジェンダーと局地性」、「トランスジェンダと非局地性」と組み合わせることにより、それぞれが類似性で結ばれた一対をなし、その二組が互いに逆の意味を持ち合って、総体として、差別や排除をし合う働きを形成している実態が浮かび上がってきます。すなわち、シスジェンダーが局地性と相性をなして、多数者のもつ特権性や特異性、言い換えれば他者の存在が見えない傲慢な狭い視野との片やの構造を浮かび上がらせます。また他方は、トランスジェンダーと非局地性とが相性をなして、少数者のもつ差別受難、言い換えれば、その苦痛を通して見えてくる特権構造全体とその普遍的特性という広い視野の形成です。

局地性や非局地性という用語は、いまのところ、あくまでも量子理論という先端物理学用語で、それを性同一性障害の問題といった人文・社会系の用語として適用することに、確かに、無理や飛躍があることは承知しています。しかし、この量子理論の専門用語が、先にも述べましたように、実験での立証は重ねられながら、それが従来の概念では説明しきれない、その未開分野を取り扱う新概念として登場してきていることに留意する必要があります。また、「シスジェンダー/トランスジェンダー」という一対語にしても、性同一性障害という、時代的には比較的近年になって取り上げられ始めてきている問題を扱うために造語された用語です。つまり、元々は何らの関係も持たない違った領域において生まれた用語同士なのですが、どちらも、時代の同質な問題解決の必要を背負って登場してきている用語と言えます。そういう意味で、そうした両者が、互いに類似性をもって影響し合うのも理由のあることだと考えられます。つまり、旧来の概念に同じような《自縛》を見出しているがゆえの、そこからの解放をめざす新概念として、同類の働きを共有しうるいうことはできましょう。


男/女という自縛を越えて

そこでその「自縛」に関してですが、この「局地性/非局地性」との量子理論用語を用いて言えば、たとえば、人間が生物としてもつ男/女について、以下のような見方が提起されます。

それはまず、男/女という私たち人間の最大の属性区分を「局地性」として捉えてみることに始まります。つまり、私たちは、男か女か、そのいずれかという「局地性」に属さなくては存在しえず、人間一般としての、「非局地性」に属す存在はありえないわけです。

ところが、そういう「局地性」に心底浸っていながら、その他方で、生命創生という面では、男女間の共鳴や共振という交信はあまりにポピュラーで、そういう男女間の共鳴や共振というのは、人間の両性相互現象――人間としての総体現象――の体験そのものにほかなりません。ただしそれは、歴史的かつ社会的な性的分離や差別行為/制度の累積の中で、各々の側のそれぞれの局地的属性のみが、肥大発展し続けてきているわけです。

もし、たとえば男が女への強い共振共鳴を感じる際、それを、欲望とか、ましてや暴力的奪取としてしか捉えられない場合、まさにそれは、歴史的社会的所産である局地的発想を土台としたものの発現であり、まして、人間の「総体現象つまり非局地性」なぞでは決してないわけです。

人間の進化過程を振り返れば、その進化は、雌雄分離つまり男あるいは女のいずれかに分かれることが、生物の進化として結果的に有効であったがゆえの現在です。そしてその進化の途上、人間の歴史は、それを分離差別する文明文化を発展させてきました。それがいまや、その歴史的進化のプロセスが頂点に達して、それを「総体現象つまり非局地性」として捉える時代に移ろうとしているがごとくです。

言い換えれば、生物の物体的進化の合理性として、雌雄分離形態が結果的に有効で、今日に至ってはいます。ですが、それが永遠に有効なものであることの保証は何もありません。ただ、たまたま、これまでは有効であったにすぎません。それがかくして、いまや、そうした文化文明の結果の一種の非合理性が明らかになってきている、ということなのかも知れません。

あるいは、そうした生物的進化の結果、人間は意識という、物的土台の上に築かれた、非物象的機能を持つまでに至っています。そしてその意識が、物的な雌雄分離をビジョンとして一括できる視野を備えうるようになっています。言うなれば、人間の進化は、そういう次元に入ってきていると言えましょう。

そこで、時代を映す象徴的な言い方をすれば、科学の客観性とか物証性の原則とは、いわば《科学の男原則》=局地性で、科学の《男女総体性原則》=非局地性に立つならば、少なくとも、その客観性とか物証性のもつ狭さ、閉塞さを見直すことになるはず、ということです。

あるいはそれは、前回で述べたような「科学主義と神秘主義の融合」といった方向付けとして捉えることでもありましょう。

そして、その曲がり角で、同時に、コロナ危機が強力に人類に作用している。ということは、この現象は、人類がこうむる疫病の次元が、もはや量子的次元、すなわち非局地的次元と重なり合っていることを示唆しているのかも知れません。

今日、量子理論は、量子コンピュータといった、理論の特性のほんの一部の働きの抽出に偏って注目されています。そうした発達が、上記の「総体現象」の利用になるまで発展するとき、「科学主義と神秘主義の融合」の方向においても、確かな成果をもたらしてくるものと思われます。

ところで、これは私的体験についての追記ですが、私が、局地性とか非局地性といった用語がまだよく呑み込めていなかった頃、ある、意外な体験をして、その用語の持つ、思わぬ可能性にふれたことがありました。それは、2018年に、インドのシッキム州をおとずれ、世界第三位の高峰カンチェンジュンガを標高5千メートルの峠より直望するトレッキングに行った時の体験です。なお、このトレッキング記では、「局地」を「ローカル」「非局地」を「アンローカル」と書いています。

【コメント】今号より設置されている新メニュー項目、「四分の三プロジェクト」についての説明は、こちらをご覧ください。

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