病苦と科学と宗教と

「自分彫刻」についての、別の角度からのアプローチを述べてみます。

まずはじめに、兄弟サイトの『両生歩き』において、その《「人生二周目」独想記 第6号(正式公開は2月22日)に、自身の前立腺ガンとの“闘病”をめぐり、そこに見出した〈身体性〉と〈思想性〉の錯綜のもたらす「双対性」とは、〈「究極のゴール」とする「山頂なき登山」へのひとつの登山道ではないか〉との見解を述べました。

その一方、これは、もう十年以上前に――今の状況を、いつか来ることと予想してのことだったのでしょう――読んだものですが、『生きて 死ぬ 智慧』(小学館 2004年初版発行)と題した、長く難病に苦しみながら生命科学を探究する柳澤桂子博士の著した、『般若心経』の「心訳」が描き出す視界があります。

こうして、二つの体験を同時に視野に入れてみる時、それらは、実は、同じことに触れ合っているのではないかと気付かされるものがあります。

                ◇    ◇    ◇    ◇     

この『生きて 死ぬ 智慧』には、その巻頭に、以下のような表現が掲げられています。

ひとはなぜ苦しむのでしょう‥‥‥ /ほんとうは/野の花のように/わたしたちも生きられるのです。/もし あなたが/目も見えず/耳も聞こえず/味わうこともできず/触覚もなかったら/あなたは 自分の存在を/どのように感じるでしょうか/これが「空(くう)」の感覚です

同書 p.1

30年以上もの難病とのまさに苦闘の産物というべきこれらの言葉は、私の自覚症状もない早期ガン罹患なぞからは――「何でなんだ」などと愚痴は吐けても――、とてもとても、口にすることさえ憚(はばか)れます。

ただ、自身のそうした微々たる体験の中からでも、それらが相似的に――複雑系の用語を借りるなら「フラクタル状に」とも言えましょうか――表している、意味関係は捉えることができます。

それは、闘病という執拗なストレスが究極的にもたらす、仏教で言うなら〈悟り〉への道です。また、これを科学の言葉で言えば、生命の宇宙的意味です。

あるいは、当時ベストセラーとなった同書について、その書評を書いた玄侑宗久(げんゆう そうきゅう 作家、臨済宗福聚寺副住職)と同著者が遣り取りした書簡が、『文芸春秋』2006年12月号に掲載されています。「般若心経 いのちの対話」との題名のこの記事には、「仏教者と生命科学者が『生と死の哲学』をつづる」との副題が添えてあり、こうした科学と仏教との間の、生命論を介した橋渡しが述べられています。

そこでまずその書簡の第一信では、玄侑氏は、同書について、こう口火を切っています。

正直なところ、私は一人の仏教者として、『生きて 死ぬ 智慧』に驚愕し、また共感致しました。/何よりその言葉は切実な実感に溢れており、私の胸にまっすぐ届いてきました。おそらくそれは、長年に亙る柳澤さんご自身の「苦」の旅路にも由来するのでしょう。「照見五蘊皆空(しょうげんごうんかいくう)」。すなわち、「苦」を生み出すシステムとしての「五蘊」という我々の身心機能を、「空」と認識できた喜びを伝えたいというのが『般若心経』なのだと私は思いますが、まさにそのことを実感されたからこそ、心底からの言葉としてのあの詩訳が溢れ出てきたのではないでしょうか。

『文芸春秋』2006年12月号 p.158-9

ここに述べられている、〈「五蘊」という我々の身心機能〉と〈「空」と認識できた喜び〉とは、稚拙ながら、私が上記の『独想記』で述べている〈身体性〉と〈思想性〉に対応していると受け取れます。そしてその対関係は、私が「双対性」という考えを通して、「収れん」や「統合」を目指していることと関連していると理解するのですが、それを第二信で柳澤博士は、以下のようにつづっています。

玄侑さんは、科学とは分析的なものと思っていらっしゃるようですが、それは科学がまだ統合に至らないからです。その証拠に、最先端の素粒子物理学の研究者たちは「神」を見ています。統合に向かっているのです。/私も生命科学のなかに「神」を見ますが、私は、それをいわゆる一神教の神ではなく、広大な宇宙だと思っております。

同 p.163

そして、博士が自分で経験した「悟り」について、科学者の目から、こう書いています。

現在の科学では、まだ宗教の世界を説明することはできません。けれどもその片鱗は見えています。たとえば、「悟り」という境地に到達するには、かならず強いストレスがついて回ります。強いストレスを与えられると脳は脳内快感物質を出します。/〔略〕/脳が飛躍的に異質な状態に入ることは科学で説明可能なのです。おそらく非二元的な世界に入ることも可能でしょう。

‥‥科学の過程で、二元的な段階を通るでしょうが、いずれそれは統合されて、ものごとの正しい姿を見るところに行き着かなければならないのです。生命科学にも全体性は要求されます。残念ながら、まだそこまで至っていない。しかし先は見通せます。どれだけ時間がかかるかわかりませんが、かならず“wholeness”に行き着くと思います。

同 p.165

ここに言われている「二元的」とは、心と体、精神と物質という、二者からなる世界の捉え方ですが、私の言う〈思想性〉と〈身体性〉もそれに相当します。そして、ここに言う「wholeness」とは、私が先に科学を要素還元主義とし、そこにはホーリスティックな見方が欠けていると述べた、そのホールネスです。

そして、こうした来たるべき「wholeness」の世界は、もはや、科学と宗教の合体した世界ではないかと、玄侑住職は科学における変化をこう指摘します。

‥‥仰るように素粒子物理学では、今や「客観」というこれまでの科学が拠って立ってきた基準さえ失われ、あらゆる現象は観測する主体との関係性のなかで生じる「出来事」されてしまいましたから、そちらの方面からも「空」という「実体のない状態」は説明できることになりました。

こうした科学と宗教との合流とも云うべき現象は、たしかに至る所で見られるように思います。

大きく云えば東洋と西洋との合流とも感じられますし、また、科学と宗教との相補的な関係ができつつあるのかもしれません。もしかするとそれは分析知と瞑想知との総合なのかもしれませんね。

同 p.166-7

もう、このあたりにまで来ると、こうした合流や総合とは、私が自ら「究極のゴール」としている〈非科学-科学〉の世界そのものと言えるかとの思いに至るわけです。

以上のように、私は、十年以上も前に出会った著作と今の自分の体験を同一視野に置き、時間も、体験の種類をも越えた、ひとつの総合視界を見出します。

そこで、冒頭の「自分彫刻」とは、ここで見た「病苦と科学と宗教」が合体/収れんするというアプローチと、これまでに見てきた〈非科学-科学〉が打ち立てられてゆくというアプローチをもって、両者がこれまたさらに広大な「双対性」をなして、私自らの生命が体現してゆく作業ではないかとの思いにたどり着こうとしています。

そして、こうした「自分彫刻」こそ、前回述べたまさに「メタ彫刻」です。

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