2.1 実験原則の新たな適用

「自然実験」という新ツール

11月28日付の日経電子版の「Global Economics Trends」によると、〈今年のノーベル賞に決まった「自然実験」は、「政策の効果検証に革命」〉とあって、「自然実験」という見慣れない用語を紹介しています。

そこで、この記事を要約してみるとこうなります。

これまでの理論中心の経済学では、制度改革などについて理論が想定する影響を、統計データなどを使って検証しようとしても、改革の前後のデータを単純に比べるだけでは、効果を正確に測定するのは難しかった。例えば、最低賃金の改定や移民問題、教育の効果など社会全体への影響を分析するような場合には、研究者が条件を変えるといった介入ができないため、実験には適さないと考えられていた。

そこで、1980年代あたりから、「自然実験」という考え方、分析手法の開発が進んできた。人為的な実験はできなくても、法律の変更や制度の変更、自然災害など、研究者の意図とは無関係な形で起きた大きな社会変化を、あたかも実験を行ったかのような状況とみなせることに、研究者たちは気付いた。社会全体を大きな実験室だと考えれば、政策変更など事前に予想できなかった大きな変化によって、図らずも2つに分かれたグループが見つかることがある。

たとえば、米ニュージャージー州では92年4月に最低賃金を引き上げたが、隣接するペンシルベニア州では据え置いた。この意図せずに生じた2つのグループを自然実験での観察対象とみて、両州のファストフード店の賃金と雇用の関係を調べ、最低賃金の引き上げによる雇用への影響がほとんどなかったことをつきとめた。

以上のように、経済学の分野において、この「自然実験」という手法が開発され、それがノーベル賞の対象となるまでに注目されているとのニュースです。

つまり、このノーベル賞クラスのブレイクスルーとは、科学における必須手法である実験を経済学という実験の困難な分野に適用するにあたり、よく世界を見渡してみれば、適用可能な「実験」が存在していたではないか、という着眼上の新規さへの評価です。

そういう意味では、この「理論人間生命学」においても、同じレベルのことが行われています。つまり、私たちの人生という、いっそう実験概念のなじまない分野において、人が自ら選択して他者と異なった生き方をするというのは、それは「実験」であると考えてきました。

さらには、人生を「科学的に捉える」という意味で、「自分を実験台にする」と称してあえて新規な道を進み、その結果を記録することで、それを「実験データ」として使おうとの提案をしてきたわけです。

そして最終的には、とかく逸話的に――あたかも個人の運命だの運不運だのと――しか扱われないがちな私たちの人生の実態に、もっと理論的な考え方――例をあげれば、社会の在り方が人々の人生に及ぼす影響とか、創造的な人間がどのようにして育つのか等の実証――を適用しようと展望するものです。そしてその体系を「理論人間生命学」と呼んできています。

恣意から「科学」へ

経済学上の「政策」とは、国やら州といった大きな社会集団上の選択です。一方、「理論人間生命学」が取り上げてきているのは、個人の生きる上での選択です。

近年、大学の学科で、一般に「公共政策学科」と呼ばれる分野が増えています。私が学生であった半世紀前には、少なくとも独立したものとしてはほとんど見られなかった分野です。それが、「実証結果に基づいた政策形成」(Evidence-Based Policy Making : EBPM)が求められ、こうした学科の新設に至ったと思われます。

国レベルでの政策決定に確かな根拠が求められるように、人生の方向の選択においても、状況任せや、運で済まされては、それこそ、個人にとっての一回ぽっきりの人生にしてみれば、どこが「人を大事にする政策」か、ということとなります。

ちなみに、最近、「親ガチャ外れ」との流行り言葉があるようです。それは、親からの恩恵が得られない不運な立場といった意味のようですが、そういう状況をミニマムにするためにも、「人それぞれ」にしない「公共政策」が必要です。

私の時代、女性の高等教育用として短大というものがあり、そこでの常設科目に「家政学科」というのが多く見られました。今では流行らない、それこそ「昭和」な学科です。

しかしそれを、専業主婦を前提にしていた時代にあって、女性の個人の必要に応える学科であったと見れば、むろん現実的なものでありました。

今日ではそれが、男女の区別なく被雇用つまり就職を前提とするがゆえに、自分を企業に売るために役立つものとして、今の各専門学科が出来上がってきています。つまり、個人の価値が労働商品価値としてしか計られない時代の産物です。

「自分学科」としての「理論人間生命学」

それを、就職することを目的とするのではなく、それこそ「起業」をはじめ自分流の生き方を目的とするのであれば、自分の道を Evidence-Based で開発する「自分学科」といったものが求められて当然と言えます。

観点は変わりますが、その自分流を制度的に保障するのが民主主義だとすると、就職目的中心の「会社主義」の教育や学科システムではなく、民主目的に沿った教育や学科システムがあって当然です。

そうした「自分学科」の「自分」たるものを、その誕生の根源にまでさかのぼって捉えれば「生命学科」となるはずです。

すでに述べたように、その「生命学科」へ向かって生物学が発展しています。また、その究極の先端にあっては、量子理論との接点まで探究されています。

その量子分野の知見が、当初のミクロな次元から、最近ではマクロな次元に広がっています。そして今後、私たちの人生といった社会的レベルまで拡大された時、その Evidence-Based の開発のためには、いっそう実験という手法が避けられないはずです。

ですが、人生における実験は、何といっても時間を要します。それこそ「一生もの」です。

したがって、そういう「一生もの」の視点においては、老人学というものが、高齢者の科学という面と、一生かかった「実験」結果の分析という面との二面の使命をもっていることが解ります。

私を含め、オールディーたちが自分の人生の記録を公表するのは、そういう実験結果のレポート発表です。

兄弟サイトの『両生歩き』で公表されている様々な「データ」を、大いに活用してもらいたいと思います。それこそ、「老若共闘/共栄」に役立つはずです。

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