「理論人間生命学」のパラダイム

私にとって、この「人間生命学」というものは動的で、いつも「動いて」います。その動きは、単純なものから複雑なものへと広がりを持っています。そこで、その動的な世界、つまり、そのダイナミックなパラダイムを表すために、以下、順を追って説明を進めます。

そこでまず、お断りしておきますが、前回で予告した「エントロピー」について、それに言及するにはいく段階かの準備が必要です。そうした準備の意味を含めてもこのパラダイムの議論を進め、その上で「エントロピー」に移りたいと思います。


健康直線

その「動的」ということですが、それは、私が自分の《健康》というものを、そして究極的には、自分の《命》というものを考えた時、まず、ひとつの「線」を発想したことに始まります。それは、以下(図―1)のように図示できるものです。

図―1

この線上で、「ゼロ点」を中央に、左へゆけばゆくほど病気は重くなり、右へゆけばゆくほど、健康状態が良くなります。

つまり、病気や健康は、その「有無」のどちらかと峻別できるものではなく、どちらもその程度に深度があり、その度合いは連続的に変化するわけです。ですから、通常、病的状態では、軽症とか重症とかと、その程度を区別します。

ところがです、健康については、なぜかあまりそうした認識はなく、ただ平板に、健康状態と(あるいはそう願望視)されがちです。しかし、健康とは、はたして、そんなに単純なものなのでしょうか。

その一方、ある種の“ひいでた”健康状態は、ことにスポーツの能力などでは、一種の異才としてとらえられます。つまりその状態は、健康の一段階というより、切り離された、凡人には縁のない、特異な状態としてとらえられ、健康の連続的な発展状態とは考えられません。

ここで私は、自分の中学や高校時代を思い出すのですが、たとえばその「部活」に熱心だった際、それは自分の生活の一部で、その他のいろいろな生活内容と、隣り合わせにつながっていました。

ことに、私は小学生時代、病気がちで、健康で野球少年であった兄と比べられて、ひとり劣等感をいだかされていました。そこで、病気が直り、健康になったら、ぜひ、運動系の部活をしようと考えていました。中学生時代は過渡期でしたが、高校生になってからはバレーボール部に入り、自分の背の高さも強みとなって、健康を通り過ぎ、初歩レベルながら、それこそ、スポーツ選手としての意識を持ち始めたのでした。

つまり、そうした体験の中では、健康とスポーツは「地続き」のことで、各々、別個のものではありませんでした。それだけではなく、スポーツを通して育まれたいわゆる「ガッツ」意識が、自分自身の自信へとも発展していった経緯も思い出します。そこでの「スポーツ」とは、健康の連続した発展段階で到達する、ひとりの人間としての能力や自我成長のプロセスであったのでした。

こうした変化を、それをかたわらで導く専門家という分野で言えば、病気がちな子供には、その役を果たしたのは《医師》でした。それが、高校の部活では、それは《コーチ》でした。

以上のように、私たちの心身=生命問題を、病気から健康へとの連続した線で考えると、ある段階を境に、その視点が、《医師》のものから《コーチ》のものへと切り替わる段階があったわけです。私は、この切り替わりに注目します。

言い換えれば、制度として樹立した、医療界とかスポーツ界とかが枠組みとなって、自分自身の健康状態が区別され、いわばそれらに無理に合わされていたのでした。こうした一種の強制関係を「疎外」と呼ぶと、自分の健康がそのように「疎外されていた」のでした。

健康二次元座標

そこで示したい次の図示が、下の図―2です。

図―2

この図では、二本の線を十字に重ねた座標が示されています。横軸に、上に述べた「病気・健康」の連続線をとり、縦軸に「身体・精神」の連続線をとります。両線の交差点がゼロ点で、左側に病気の世界が、右側に健康の世界が示されています。

この座標に横書きで記入された多種の「専門」名称は、上記でいう諸「制度」の名称で、いうなれば、私たちを「疎外」に迷い込ませるさまざまな制度枠です。ことにその中でももっとも強力なのが、水色楕円で示した医学界です。

この座標上で、右側の健康の領域において、身体と精神の上下両方にまたがる分野に注目しましょう。心身両面において健康な状態です。この黄土色の楕円で示した状態が「人間生命学」が対象にしようとする領域です。

この楕円の身体面では、「スポーツ医学」とか「フィットネス」とかと呼ばれる専門分野があり、近年、従来のスポーツ界の“精神論”を克服する科学的手法となっています。また、精神面では「マインドフルネス」と呼ばれる専門域があり、ある種の東洋に伝統的な安らぎの手法を焦点にすえて、日々の充足感や仕事の生産性の向上をもたらすといった効果をあげています。

より詳しくは、これら以上の様々な専門がありますが、ここでは以上にとどめます。ただ、注目しておくべきことは、これらの様々の分野の専門家は、もはや「医師」とは呼ばれる立場ではなく、「コーチ」とか「トレーナー」と自称あるいは呼ばれて、ゼロ点より右側のプラス領域においてのいっそうの向上を意図していることです。つまり、私たちの日頃の健康に、そうしたスポーツ的な開発手法が取り入れられ、そのレベルの向上に生かされるようになってきていることです。

他方、この座標上で、左がわの空色分野が医学で、そうした「医師」の中に、身体面では、生理学とか病理学をマスターした内科医師や外科医師がおり、精神面では、精神病理学をマスターした心理学医や精神科医がいるわけです。予断を含めて言えば、すでに確立した制度の一環として、私たちを「疎外」へすらと導く、強力な枠組みとなっています。

スピリチュアル要素を加味

実は、「人間生命学」には、図―2に示した横軸に「病気・健康」の連続、縦軸に「身体・精神」の連続をとった平面的広がりに加えるさらなる要素があります。それは、下の図―3に示す「スピリチュアル」の要素です。

図―3

この「スピリチュアル」とは、日本語に一言では訳しにくいのですが、私の以前の記事では「霊理」とも呼んだりして、通常、いわゆる「精神」には含まれない「心」とか「魂」の分野を含む要素です。そして、その「スピリチュアル」にも連続的な変化を置き、その陽性な働きを(+)、陰性なものを(-)と表示してあります。

この平面において、第一象限の「健康×スピリチュアル(+)」分野に注目しましょう。言うなれば、心的に意欲旺盛な分野と言ってよいでしょう。そして、黄土色の円で示してあるように、「人間生命学」は、この領域を舞台とします。

また、この領域には、俗に「ニューサイエンス」と呼ばれる分野や、東洋の伝統である「禅」や「瞑想」なども、この分野に位置すると考えられます。

他方、その左側には、上半分の「スピリチュアル(+)」分野に、ブラック宗教、迷信、カルトが位置し、下半分には、古典精神医学がそう扱う狂気が位置します。

さて、ここで、以上のような二つの平面を感覚的に判りやくするため、両図を一つに合成して、立体的な関係として表したものが、下の図―4です。実は、この立体関係がある重要な意味を持ってくるのですが、それは後に述べます。

図―4

「ラグビーボール」の世界

図―4中の「人間生命学」として表示してある黄土色の部分を立体図にしたものが、下の図―5で、ラグビーボール状の形となります。むろん、このようにイメージされる「人間生命学」のパラダイムは、図に示すように境界が明瞭なものではなく、そのような形状と内容をもって大きく広がる領域ということです。

図―5

このようにして、「人間生命学」は、病気を扱う「医学」とは明確に異なり、健康という創成的な面を扱うという意味で「生命」学です。そしてその中には、「スポーツ医学」と呼ばれる身体面を主とする分野、また、精神面を主とする「マインドフルネス」の分野、さらに、その思想的出どころである「禅」とか「瞑想」などを、実用という面では広く活用するものです。

こうして、《身体・精神・スピリチュアル》の三世界を一体の連続体とした三次元の創成世界を、生命力発揮の源泉として捉えるものが「人間生命学」です。そして、理論物理学が、応用物理学の先陣を形成するように、「理論人間生命学」は、理論を駆使して、「人間生命学」の先端を切り開こうとするものです。

地球次元から宇宙次元へ

さて、以上のようにして、図示的には「ラグビーボール状」とイメージされる「人間生命学」なのですが、ならば、それは質的には、いったい何なのでしょう。つまり、上述のような3軸で代表される三次元表現で、それは取りこぼしなく、捉えられているのでしょうか。

ここで大事なのが、理論として、あるいはアイデアとして構想される分野です。そして、そういう先端的試みである以上、既成のどんな枠組みからも自由に、独自な領域にのぞもうとするものです。これが、上の立体的合成座標から導かれるさらなる以下のようなエリアです。

私は、そうした三次元表現は、実はそれは、地球上の次元や枠組みに相当しているのだと考えます。あるいは、私たち人類の故郷である地球を基礎に、その世界を図示化したものが、その三次元表現でしょう。ところが、生命とは、それでは終わらないのです。たとえば、宇宙探査機「はやぶさ1」と「はやぶさ2」が、小惑星に生命発生の手掛かりを探しに行っているように、もはや生命とは、地球次元では捉えきれないのです。それに、地球は、ひとつの惑星で、宇宙の中では、実に特異な存在と言っていいものです。そうした特殊条件に営まれているのが、私たちのこの地球とその上の人間の生命なのです。

このようにして、地球も含む、もっと広大な宇宙的な生命の次元を、これまでの議論にならって図示的つまり視覚化の手法で扱えば、下図のような発展が描け得ます。

図―6

この図―6に表した赤線の2軸座標は、一見、地球上の三次元立体空間に加えられた新たな平面であるかのように見えます。しかし、これは、私たち地球人にとっては馴染み深い立体空間に加わる、それ以上の次元を表そうとするためのもので、あくまでも想定上のものです。それを地球式に可視化したものですから、図としてはかなりややこしくなります。(なお、ここに示す空色のもう一つの2軸座標は、さらに高い次元もありうるとの想定を示したものですが、今のところ、それはあり得るものとのレベルにしておきます。)

さてそこで、この加えられた赤線座標(図―6)は何かということですが、それは、これまでの議論から例をあげて言えば、「ニューサイエンス」とも俗称される新たな“科学”の分野を、座標化したものであると言うことができます。すなわち、既存サイエンスがまだ扱わぬ新たな領域にチャレンジした分野、それを座標化したものです。

そもそも既存サイエンスの座標のアイデアは、そのサイエンスの内の最も精緻な理論を使える数学上の道具です。本理論では、そうした座標に、独自に「スピリチュアル」の軸を加え、新たな構想の切り口にしようといます。

そしてこの「スピリチュアル」ですが、それはどう定義されるのかという点では、人間にまつわる、非物質的領域のうち、精神医学あるいは心理学と、既存分野が対象としないものを指します。実体を把握し切れていない対象だけに、それの言葉での定義は困難です。またそれは日本語上では、「心」として認識されている分野、あるいは、一般に、超自然現象と言われる分野を対象に含みます。

そこでなのですが、ここで採用したい手法に、その数学の世界での精緻性と、理論物理学の脱地球志向を結合させた《複素数》という考えがあります。この考えは、地球的な「実数」と、宇宙的な「虚数」を融合させる考えで、それも座標化することが可能です。すなわち、「実数軸」と「虚数軸」からなる平面座標としたものです(通常、実数軸を横軸にしますがここでは90度回転させて縦軸としています)。そしてこの座標は《複素平面》とか《複素数平面》とか《ガウス平面》とかと呼ばれます。(この辺りの虚数をめぐる数学の世界をのぞく話については、「虚数」という異次元へのポータルを参照してください。)

すなわち、図―6に赤線で表した座標がこの《複素平面》で、「理論人間生命学」ではこれをもって、その地球的な「実数」と宇宙的な「虚数」という二者を同一平面で扱えるこの手法に注目します。そしてその「実数軸」を「スピリチュアル」軸に重ねることで、地球的な数量で縛られた世界からの脱出の筋道をつけたいとするものです。

当「理論人間生命学」は、以上のようにして、地球次元から宇宙次元への《脱地球》の脱出道具を用意したわけです。そこで、こうした道具をもちいて、次には、いったい何が見えてくるのでしょうか。

「量子理論」座標

さてここで、前号で予告した「エントロピー」です。実は、私がこの「エントロピー」に注目するのは、量子理論の父とも称されているシュレディンガーが、4分の3世紀昔、『生命とは何か』という著書の中で、生命は「負のエントロピーを食べている」との有名な見解を述べたことに係わっています。

先鋭な物理学者が畑違いの生命について言及したこと以上に、生命現象の《自己創出(注)》の謎に、物理学の一分野である熱力学の法則を当てはめ、「負のエントロピー」という空想上の概念を提唱して生命を定義しようとしたのでした。このあたりの直観と飛躍は、ものごとの発展には不可欠ですが、まだまだ、その途上にあるようです。

その後、熱力学上の概念を大いにひねった「負のエントロピー」というこの考えは、どうやら統計学的(これは私の推測)に否定され、この議論の延長上での発展はまだないようです。

ここで注目すべきは、生命現象というこの《自己創出》の深淵な謎です。前回、「第4原則」として「映画館の錯覚」を述べましたが、私たちの意識自体がそのような定まらぬところに立脚している、その不確定性に手掛かりを与えようとするものです

このあたりの未解明な部分に光をあてはじめているのが量子理論です。つまり、量子理論の大御所のいう「負の」という用語は、「負」という概念でその不確定性を代表させようとした、そういう意味で、目の付け所としての意義は失っていないようです。つまり、「正と負」という「対の関係」が、ただならぬ役割を果たしていそうだとのねらいです。

当「理論人間生命学」としては、そうした追求の眼目として、この「対の関係」という、この量子理論の本来の議論に注目します。そして、図―6に提示した複素平面において、実数と虚数という対関係が決定的役割を果たし、数学技巧的ながら、それこそが、少なくとも数学理論上の突破口となっていることに、さらに注目したいと考えます。

  •  (注) 《自己創出》という用語は、広くは「オートポイエーシス」と呼ばれる生命理論を和訳したものです。生命が自分で自分をつくれるという当たり前ながら不思議な作用に焦点を当てた理論です。「理論人間生命学」としては、人間が意識をもつという「映画館の錯覚」現象までも含めて、《自己創出》の謎を捉えたいとするものです。なお、「オートポイエーシス」に関しては、もうひとつのサイトの記事「量子《“対”現象》への展望」のQL 2Year+6Day(2020年12月30日〈水〉)の記事、あるいは、両生学講座の「取り留めもない、オートポイエーシスな私」の記事を参照。

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