4.3 ホログラム存在

 

「汎情報の質的ホログラム」

議論内容としては繰り返しとなりますが、適用段階に進むにあたり、ここで再度、確認しておきたいことがあります。それは、以下に述べる特性に気付くか否かによって、私たちは基本的に、自分自身の認識の立ち位置を、大きく異ならせてしまうからです。

また再度というのは、本論記述の早い段階で、人間の「意識の起こり」について、それを「映画館現象」と呼んで議論しました。その着眼への再度の言及となるのですが、ここでは以下のように、別の譬え――ホログラム――を用いて、再度それにのぞみます。

以前の言及でも、また、ここでも問題とするその「立ち位置の異なり」とは、意識というものが持っている本質的な性格に由来します。すなわち、端的に言えば、〈意識は自分の所有物であるのか否か〉との異なりに端を発することです。むしろ、〈自分が意識に所有物されているのではないか〉とすら言えるその由来です。

ここでさらに踏み込んで、意識発生の現場を観察すると、そこでの特徴は、顕在と潜在の両義の情報が関わっていることです。そこでこの「両義にまたがる情報」を〈汎情報〉と呼んでみます。そうすると、意識の発生の現場では、入力する〈汎情報〉と、出力する〈汎情報〉とが相互インスパイアし合う自己創造過程が発生していることが認められます。そしてその一瞬一瞬に出入りを繰り返す〈汎情報〉の運動の産物としてその時その時の意識が動的に形成されます。そのプロセスはまるで、作ると作られるが一体化した質的振動現象です。つまり、ホログラムの譬えを用いて言うと、その時の「汎情報の質的ホログラム」として意識がもたらされているということです。

したがって、意識が私たちの身体や臓器と同じように自分に伴って在るのは明白としても、臓器が自分の「所有物」と確かに認識できるようには、意識が自分の「所有物」とは言い切れません。しかもそれは、臓器が物体であるのとは異なり、物体的存在ですらありません。そのような非物質的な「ホログラム存在」であるのが意識であり、そうであるがゆえに、「メタ存在」でもあり、また、「投射像=幻想」であるとも言えるものです。

ところで今日、いわゆるホログラムとは、SF的には人間自身の瞬時空間移動装置についてもそう解釈されていますが、それは空想上の話です。一方、現実の技術上で見られるのは、3次元映像を3次元空間に投影する技術で、実験的には実現されているようです。また、今日、耳目を集める売り出し中の技術では、人間の目で立体視できるテクニックを用いて、モニター(ことにゴーグル式モニター)という平面スクリーンに、疑似3次元映像を投影するまでには達しています。そして、この技術を用いて、疑似自分像をその疑似3次元空間に組み込める映像世界アプリが商品化されて、そのウエアラブル装置をもって、疑似日常行動が体験できそうです。

すなわち、現在の技術上の範疇で言われる「ホログラム」とは、上に述べた「汎情報の質的ホログラム」とは比べものにもならない、似て非なるゲーム的なものです。

 

究極の健康

そこで、その技術が飛躍的に進歩したとし、もし、その自分像が、ゴーグル内にではなく、実際の生の現実空間に投影され、見かけ上は、一人の生の人間がそこに居るのと見分けが付かなくなるまでに発達したとしたらどうでしょう。つまり、上述の「汎情報の質的ホログラム」が実現された状態です。そうすると、そのホログラムによる人造の人間と、自然の人間とが、あわせて日常空間に存在するようになり、事実上の区別が出来ないほどに至った超高度テクノ社会の時代です。こうした究極のテクノ発達の水準を「神的水準」と呼ぶことにします。

ここで加えておく視点として、技術の発展は、それに要する時間は長大としても、現実技術のレベルから、この「神的水準」のレベルに至るまで、連続した線的なプロセスがあると仮定します。つまりそこに、「神的な飛躍」やその可能性を断絶する不連続はないとの前提です。

そこでなのですが、その「神的水準」にまでは到底いたらないとしても、その途中のどこかで、その線的に伸びるホログラム技術の発達の産物として、物体としての人間と合わせて、その意識も“技術的”に発達可能なのだろうか、との疑問が浮かびます。

つまり、技術論としての発達に、意識の発達も同時的に伴うのかどうかと問うた時、それは、そうであるとはそうは簡単には言えず、むしろ、別々のものではないかとの視点が生じます。そして極端な見方を入れれば、物的な発達に意識的な発達が遅れる、ある種の「ゾンビ化人間」の出現の可能性です。

これは私の予想ですが、こうした進んだIT技術のもたらす影響が、そのうちに、低レベルの「ツール」の認識を越え、人間性の変化に決定的にかかわる「環境」、少なくとも「テクノ環境」となるだろうとの視点です。つまり、そうした疑似現実のいっそうのリアル化した体験を通じ、もはや、人間性の形成には、自然環境の関与の余地は激減し、それに代わる疑似自然として、IT世界のもたらす人工環境がその主役となってゆくのではないかとの恐れです。これこそ、オーウェン的なデストピアの世界ですが、すでにその分岐点は通り過ぎており、その人工的環境――中国の行き渡ったテクノ監視社会を最先端に――に入ってきているのは間違いないでしょう。

言うまでもなく、人間が「ゾンビ人間」かどうかの分かれ目は、意識の有無です。つまり、人間は、地球上における生命の35億年の進化過程の結果、脳という高度な神経組織を発達させ、生きものの物質的発達の頂点において、意識という〈非物質的〉機能を持つに至っています。

そこで私は、意識が、ここに「ホログラム」になぞらえて解きほぐされたように、それほどの動的な「汎情報」の相互インスパイアし合う関係のもつ「メタ性=幻想性」を本質としていることに“無意識”であってはならない、と考えるものです。

そこで思い浮かぶフレーズが、意識とは、《たかが「ホログラム」であり、されど「ホログラム」である》ことです。そして人間の意識とは、その「メタ性=幻想性」にまったく無自覚で、それを即、現実力と信じて駆使できる事例であっても、それを支えるインフラをたとえ一時でも欠いた時、電源を切られたIT装置のように、そのモニター上のホログラム映像=意識はあえなく消えてしまうことです。ここに、ある意味で、《健康》の究極像が示唆されています。

仏教が言う「無」とは、そういう「たかが」と「されど」が織りなす非地球的境地=超健康のことなのでしょう。

以上、「ホログラム」という比喩を用いることで、以前の「映画館」の比喩とも合わせて、私たちの意識のもつ見落とせない本質に迫りました。

【お断り:9日ごろ、本章の草稿が誤って一時表示されましたが、今回が正式表示です】

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