3.1 理論と経験の結合

《経験的知見》からの合流

この「理論人間生命学」は、その名の通り、理論的な枠組みとアプローチをその開発の方法としてきましたが、他方、兄弟サイトの『両生歩き』において、それを経験的に、ことに「健康」――すなわち健やかな「生命」――というアプローチをへて、ひとつの達成を見ています。

むろんこれは、私的体験に基づいた視点ではありますが、理論という抽象性をその対極から補う具体性において、まぎれもない事実を提供しているものです。

そしてその経験的達成のもっとも最近のケースが、『両生歩き』の「この生命体のオペレーター」において述べられています。それはすなわち、前章に示した図(下に再掲載)に示す「移動」を、具体的体験としたものです。

この生命体のオペレーター」からの再掲載

本章では、こうした二つのアプローチの合流の意味をさらに噛み砕いてみるのですが、基本的に、私たちが日常の健康管理やその増進とは、上図で示す「地球認識界」における努力や取り組みです。そしてその中で、各自が行ってきたさまざまな行為は、上図でいう「人生実験」に相当し、また、それによって獲得された病弱状態から健康状態の回復は、上図でいう「移動」に相当するものです。その結果、上図でいう「増加した認識容量」によって、いわゆる「健康観」は「人生観」へと成長しえたわけです。

そしてこの「この生命体のオペレーター」においては、「この《地球環境とは「異なるもの」》へと踏み込んでゆくこととなります」と結論されています。まさに、上図でいう「宇宙認識界」へと到達していることにほかなりません。

「宇宙的摂理」との方向

たしかに、それをいきなり「宇宙」と呼ぶのは、なにやら飛躍した印象が伴います。しかし、たとえば地球を太陽系の第三の惑星と捉えれば、それはもはや宇宙的視界です。

あるいは、日本の小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトは、その目的のひとつを、生命の起源を宇宙に求める説にもとづく、「サンプルリターン」としています。

かくして、上記の《地球環境とは「異なるもの」》の探究が「宇宙」へ向かうのは、「移動」の方向として、もはや当然な流れとなっています。

一方、先の「2.3 『宗教』という独自領域」では、こうした避けられない方向として、従来「宗教」が扱ってきた領域に焦点を当てました。しかし、それを従来の「宗教」の範疇で捉えようとしている限り、それは進展に自縛をかけてしまう恐れがあります。

あるいは、「宗教」はそもそも、そうした宇宙的視野を含んでいると考えないでは、その本来の可能性を見落としているとさえ指摘できます。

「移動」を起こさせるもの

そこでこの「移動」振り返れば、それは当初、地理的なものとして始まり、やがて、精神的、あるいは思想的なそれへと発展してきました。そういうこの「移動」とは、いったい、何によってそれがもたらされるのでしょうか。それをおこす動因は何なのでしょうか。

好奇心も然り、探究心も然り、尽きなく湧いてくる疑問も然りなのですが、そういう未知の世界へと向かう欲求なり習性は、いったい、どこから、何を根拠にもたらされてくるのでしょうか。

高いところにある物体は低いところへと落下します。こうした現象を引き起こすのは、そこに引力が働いているからがゆえ、と説明されます。ならば、「移動」がそのように起こる場合にも、なんらかの「引力」に相当するものが働いているのでしょうか。

人をして、そのように「引っ張る力」が働いているとすれば、その起こりは、普段の認識体験のなかで一種の欠落あるいは食い違いを見出した際、その空隙やギャップを埋めようとして(いわばよく見えるように)、何らかの物的あるいは理念的な「移動」をするということでしょう。ということは、「移動」を通じて得る動的摂取こそ、人間の認識の根源ということとなります。

ここに、そうした「欠落」や「食い違い」を発見する、何らかの基準や尺度が存在していることが示唆されます。

先の「2.3」に述べたように、「地球も宇宙も、統一された同じ《摂理》で支配されている」との仮説を使って言えば、この何らかの「基準や尺度」とは、地球を含め、宇宙のあらゆる“津々浦々”を占めているこの《摂理》のことではないかと、推察されます。

さらに言えば、むろんその《摂理》は、私たちの体内でも、ことに脳内細胞の中でも働いていて、それが、そうした探究心の根拠となっているのではないか。

ここでいよいよ、その《摂理》の発現の仕方につて、それがどのように私たちに作用しているのか、その“メカニズム”に踏み込んでゆくこととなります。

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