〈直観による飛躍的発展〉
先に議論の筋道を分岐してその前半を掲載しましたが、以下はその後者である〈直観による飛躍的発展〉の詳細です。そしてその「直観」が着目する「氣」についての議論を述べてゆきます。
世界を東西に分けるもの
前述した「東西の融合」へと至る「東西」の二元論を、一部その議論と重複させつつ、思考方式という観点から掘り下げてみます。
東洋の考え方の最大の特色とも言えるものは、西洋の「細分化」と対比を成すかのように、〈対象の全体像をまず描く〉こと――これは直観的な発想に拠るものと考えられる――が、広く認められることです。あたかも「初めに言葉ありき」の西洋に対し、「初めに全存在ありき」の東洋です。
むろんそう描写された想定が常に妥当とは限らず、時代的特色を担っていたり、あるいは、歴史の土壌をなす地域性を代言したりしながら、そうした想定像は、長い時間の経過のなす研磨によって深められ、もしくは淘汰され、その結果の産物が定着してゆきます。
他方、西洋の考え方にあっては、あたかも絶対的な尺度がこの世の原初から存在しているかのように、対象への断定的な意味付けがほどこされ、あるいは、対象物の細分化をへて物質還元した想定をもって、その集合として全体が提示されます。したがって、全体は各要素の加算したものを超ええず、全体化することによる創生は導かれません。
こうした東西の世界像の違いは、今日の世界における東洋と西洋の違いを説明するに有意な対比です。そして、このように捉えてみると、確かにそれは根本的な違いのようには映ります。しかし、その違いを時間的スパンを十分長くとった尺度で俯瞰すれば、いずれも、人間が着想したものが時の経過によって吟味される途上の産物と解釈され、いずれもが、そういう壮大な《実験》過程なのだと考えることができます。
したがって、「東西」といったその違い自体のもたらすものを、さほど本源的と見る必要はなく、要は、さまざまなローカルな要素が、いまのところ、東西に大分されているということにすぎません。したがって、それは今後、将来に向かって、互いの交り合いが深まって「融合」してゆくのは当然な話です。
そこで、いずれもそのように「実験」を試みている追究途上であるということであるなら、そうした実験過程を根拠に、それをここであらためて「科学的手法」と捉え直してみることは可能です。その上で、そのように東西に分化させる思考の規範として、西洋における〈絶対無謬の意志の概念〉に対比される、東洋における〈全体を描き出しうる概念〉があることに注目することができるわけです。
こうして抽出される〈全体を描き出しうる概念〉のひとつを、東洋で伝統的に取り上げられ、風雪をくぐってきた「氣」である、とするのも妥当だと考えます。
量子理論の登場;西洋による西洋の卒業
他方、西洋の個々の細分要素を積み上げてゆく物質還元主義は、ごくごく狭い範囲のことを扱っている限りでは、その狭さがゆえに、そこに生まれる誤差は、ことに実用上では問題とはならないばかりか、従来、その測定すらできませんでした。
しかし、そうした細部を寄せ集めた大きな部分になればなるほど、累積した誤差のもたらす問題が生じてきます。あるいは、時代の進展とともに計測法の精密化も進み、より厳密な誤差も測定可能となってきています。
科学史上、そうした誤差を――数量的にだけでなく理論的にも――取り上げた嚆矢〔こうし〕が量子物理学で、それをきっかけに、西洋の科学も、しだいに、その境界部分に新たな焦点が生まれ、従来の原理を揺るがす新事実が指摘されてきています。そして、本来は両極に離れていたはずの、素粒子というミクロの世界と宇宙というマクロの世界が、理論としても現象としても、結びつく発展をもたらしています。
そこで、上記のような「氣」の包括的概念を最大限に広げて考えれば、それは人間や地球世界に限られず、宇宙へもの拡大がありえるということです。
例えば、宇宙を構成する要素について、近年、人類が既知としているものは、全体のほんの4パーセントに過ぎないらしいことが知られてきています。そして、その残りの未知なるものを、とりあえず、「ダークエネルギー」とか「ダークマター」とかと呼ぶようになってきています。そういう意味では、その「ダークエネルギー」や「ダークマター」にあたるものの一部が「氣」である、ということもありえます。つまり、既成の概念では捉え切れないものがまだまだ圧倒的に多いということで、そこに「氣」が含まれていても、いっこうに不都合はないわけです。
「氣」の各論
「氣」の概念を最大限に広げ、ダークマターの一種ともするこうした観点は、たぶん他の論稿には見られないと思いますが、その一方、私たちに身近な生活レベルにおいては――「科学的」かどうかなぞ何ら気にせずに――、「氣」の概念を事実上、受け入れてきているに等しい実態があります。
霊と氣
すでに兄弟サイトの『両生歩き』において議論してきたように、科学から非科学的として排除される、伝統的には「霊」として扱われてきている超然現象について、私はそれを一概に排除するのではなく、一種の境界上の事象として、両属性をもった要素として捉えようとしてきました。
ただし、俗習的な畏敬の念をもって鵜呑みにしたり、あるいは非近代的として即物的に嫌ったりする、両サイドからの短絡を避けるため、それを「霊理」(あるいは「霊性」)と呼んでそうした曖昧主義を克服しようとしてきました。
しかし、そうした新たな造語が、トートロジー〔名称の単なる呼び変え〕を越えられない傾向は否めず、むしろそうした造語に頼らずとも、伝統的に根付いてきている有用な概念があるなら、それを用いる方がベターです。
ことに、健康に絡んで、日本の伝統医学の持つ、ことに西洋医学に付随する欠落点を補完する有効性を改めての認識する時、この東洋あるいは日本独自の分野における考え方の「温故知新」に意義を発見するに至っています。
そうした経緯より、いっそう全体化へのアプローチを確立する観点をもって、東洋の伝統を再度、探究してゆく意義を見出しています。
実用本位の東洋医学
東洋医学の伝統においては、「氣」通じて関連付けられている機能体系概念として、「経絡」と呼ばれる系があります。それは、西洋医学でいう解剖学的な見地、つまり物質的な実証の網にはかかってこないシステムです。しかし、機能としてのそうした関連性があることは、千年をも越える治療経験によって確かめられてきているものです。
そうした治療実践は、現代においては、以下のように様々な方式によってなされており、相当な定着がみられています。
鍼灸 身体に鍼や灸を用いた刺激を与えることで、治療や健康増進を目的とする療法。もともとは、古代からの伝統をもつ中国経絡医学にもとづく医療の手法のひとつだった。だが、中国では、薬草を煎じて用いる方式(湯液医学)が――おそらく寒冷気候のために――中心となり、鍼灸はむしろ日本において発達してきた。
気功 中国伝統の民間療法で、西洋医学に対する代替治療の役を果たし、太極拳と呼ばれる健康法として人びとの間に定着している。ただ、それが「気功」と呼ばれるようになったのは戦後のことである。また、その実践が宗教的との一部の流派への見解から、中国共産党政府による抑圧を受けている。
霊気(レイキ) 明治から昭和初期にかけて海外から導入された思想・技術と日本の文化が融合して多種多様な民間療法が生まれたが、霊気はこの民間療法における霊術・民間精神療法の潮流のひとつ。その分野で「霊気」は、手のひらから発する癒しのエネルギーを指す言葉として一般的に使われている。生命力の活性化を図り、生体内のエネルギー・バランスを調整し、自然治癒力を高めるとされる。
指圧 疾病の予防並びに治療を目的に、母指を中心として四指並びに手掌のみを使用し、全身に定められたツボと呼ばれる指圧点を押圧しその圧反射により生体機能に作用させ、本来人間の身体に備わっている自然治癒力の働きを促進させる日本独特の手技療法である。私見ながら、鍼灸とマッサージとの中間的療法。
〔一部、ウィキペディアによる〕
今日の社会では、「氣」の考えを骨格としたこうした各種の治療法は、民間医療として官製西洋医療に対する代替法となって広く定着してきています。ただその制度的位置付けの制限もあって、西洋医学の普及度とは顕著な差がみられます。しかし、西洋医学が対象とし切れていない、いわゆる全体的見地――西洋社会でも「ホーリスティック」療法と呼ばれてしだいに着目されてきている――を重視するという意味で、私は、今後への可能性を、以下のような視点をもって、おおいに見出せると考えています。
「氣」への私論
まず冒頭に挙げておきたい視点は、自分のウエブサイトのコンテンツ総体を、これも「氣」の一種に含めてもいいのではないかとする視界です。
いうなれば、「氣」の実体が、物質でないのは明瞭としても、それがエネルギーとか関連性とかとさまざまに捉えられている、あるいは明瞭に捉えられない実態にあって、それを一種の《情報》――今日定着している「情報」の概念をより広げたもので《》付きで表記――として捉えてみたいとするものです。
そしてこの《情報》とは、以下の二つの要素を合わせ持っているものです。
ひとつは、デジタル信号としての情報で、これは今日に一般的に扱われている情報の概念です。
そうした情報として、私の二つのサイトを合計して、およそ15ギガバイト(「両生歩き」13.2、「フィラース」1.5」)の情報量となっています。これをA4書類(1ページ500KBとして)にすると概ね3万ページ、本にすれば数百冊にはなりましょうか。そして、これだけの情報に、一日当たり1,000人以上の訪問者があります。
ともあれ、こうした総情報量を持つ私のウエブサイト内のコンテンツなのですが、私はそれが総体として表わしているものを、自分の別像つまり「アバター」と考えています。そしてこのアバターは、上記のように、一日に千人を越える訪問者と何らかの接触をもっているわけです。また、このアバターは、私が死んでも、サイトが抹消されない限り、永遠に残ってゆくものです。
この私のアバターは、実物の人間と比べれば極めて限られた存在ですが、それでも、それの持つウエブ上のこうした対人関係は、単なる数字的意味を越える、プラスアルファな有意なものと考えています。つまり、そうした本が創り出す本と読者の関係、あるいは、本に描かれた人物が人格をもった存在になってゆくような関係です。
そこで実物の私は、そのアバターを通じての《ネット対人関係》を、サービスプロバイダーから日々提供されるログレポートのデータ――例えば「訪問者数」――をもって確認、追跡しています。むろんこれは数値上の話ですが、広く統計値からそこに隠された意味が読み取れるように、そのデータは、単なる数字の大小ではありません。そこでそうした含まれた意味を探るため、私は毎月、その大量のデータを統計的に分析して、その私のアバターの「社会関係」を上記のように公表(当面は「両生歩き」のみ)しています。
ここで、上に述べた二要素の二つ目なのですが、それは、このように統計数字がただの数値に終わらないように、デジタル信号化された一つ目の情報には、その総体として作りだす一種の《意味》としての働きが含まれているはずだ、という視点です。
アバターという擬人化した捉え方もその一つですが、それはたとえば人気作家とそのファンのように、本を介した、物的関係ではない、《意味》あるいは《ヒューマン》な結びつきを生み出します。もしこれがなければ、どの社会もその文化や芸術は成立しないはずのものです。
私は、この二つ目の要素である「《意味》や《ヒューマン》な結びつき」を、情報の《意味創生効果》と呼んで、数値や記号――つまり「アルゴリズム」化できるもの――としての情報とは区別して捉えます。これこそが《情報》の本質です。さらにそれは、社会にとどまらず、人間自身の内においても、その創生効果を果たしていると考えます。
すなわち、人間の脳内では、神経細胞が一種のウエブ網関係を形成し、シナプスと呼ばれるネットワークが、脳のもつ人間ならではの複雑な働きを支えていると考えられています。私は、そのシナプスが、神経細胞による物的構造であるばかりでなく、そこで交わされる情報の《意味創生効果》という非物質的作用を通じて、あらたなシナプス形成へと方向付けされている作用もあるのではないかと考えます。それが、人間の持つ、独創性であり創造性のメカニズムであると捉えます。
このようにして、人間あるいは生命体には、物資と非物質の二系列からなる結び付き関係が生成されていると見ます。その上で、この非物質系の結び付きが、人間、ことに医学領域においては、「氣」と呼ばれれているものに相当するのではないかと、私は捉えています。
「氣」には、上にあげたような、各実践者の立場や狙いの違いから、各々の解釈を生んで、今日の物質主流の考え方へのオルタナティブとしての概念や作用を、ことに生活に直結する実用的な体系にまとめ上げられて、人びとの信頼を獲得してきています。
つまり、「氣」の本質は、《情報》が生み出している非物質的関係性です。つまり、上に述べた二つの要素とは、情報の物的要素と、それが意味を創生する非物質的要素です。
あるいは、上に述べた一つ目の情報は、コンピュータにとって処理が可能です。しかし、この二つ目の《情報》要素は、コンピュータの扱えうる対象ではありません。生の人間だけが扱えるものです。
そういう関係における二つ目の非物質的要素について、科学概念上の扱いで言えば、それは古くはエセ科学として捨象され、その後、たとえ除外されずとも仮説としての地位でしかなかったものです。それが、以上のように、その実用性や妥当性が長い時間のなかで事実上の実験が行われて吟味され、その結果の累積を通じて、東洋の伝統的な概念として定着し、それがゆえに、手順としても「科学」と扱ってもよいものとなってきているものである、と考えます。
以上の「氣」についての私の考えを総じて言えば、もはや「氣」は医学的な概念のみならず、自然界そして宇宙界にもおよぶ、既存の物質概念では捉え切れない何かです。むろん本稿にはそれを宇宙規模で論じる意図はなく、むしろ、人間――といっても個々の人体に限られるものではない――にかかわる、物質界を越えて影響し合える要素として注目しています。
加えて、交信された《情報》は、運営者がどう処理するかに関わらず、電磁波に乗った媒体として、地球空間にとどまらず、宇宙空間にまでを飛び交っているのは確かです。ここに私は、「氣」をダークマターやダークエネルギーの一部と見ても誤りではないと思っています。
《情報》については、少なくともその《意味創生効果》は、今日の情報技術では決定的に未到達の分野です。しかも、もしこの効果が世で働いていないとすれば、例えば私たちの社会での、文化とか芸術とか広く感性とかと称されるものは、まるで存在できなくなります。つまり、実際の私たちの豊穣な生活は、その働きの存在を前提にして営なわれているのは明らかです。
言い換えれば、科学をもって「合理主義」と呼び、客観と主観とを分離し、その主観のありさまや根拠を思考の枠外に置き、逆に実態として、あたかもその除外をよいこととしたような、恣意的な扱いの横行を許してきました。明らかに、客観に偏重した公的枠組みが人間や社会を捉える尺度として寸足らずであることは確かです。ことに、その寸足らずが顕著な医学分野、つまり応用生物/生命学の開拓の一歩として、この「氣」の概念を提起するものです。
最後に、先に予告しておいた議論をここに述べておきます。
それは、先に兄弟サイトの『両生歩き』の5月22日号「『時空トラベル』という究極の試み」の中で、「東洋的旅」と「西洋的旅」の違いについて触れたものです。そしてその内容を「機会をあらためて述べる」としました。ここでその二つの旅の違いの核心を述べれば、「氣」を訪ねて行う旅が「東洋的旅」であり、数量的な拡大を目指す旅が「西洋的旅」としたい、ということです。
むろん、二者のどちらが正しい旅であると言うのではなく、ただ望まれるのは、そのいずれかに傾かず、この両者の視点を念頭においた、“欲張った旅”が試みられてほしいとするものです。