《生命情報》は世界観

《生命情報》って哲学的

科学が扱え切れていない部分は、昔から、「哲学」つまり「フィロソフィー(愛智学)」の土俵です。そしてむしろ、そのように広い分野を扱う哲学から、科学が発達し、やがて独立してきました。

したがって、そういう科学というのは厳密性の権化で、平たく言えば「仲間意識や縄張り根性がやたらに強い」。難しく言えば「包摂と排除」に長けています。またそれだけに、頼りになる存在です。

《生命情報》の世界も同じように広く、科学が排除することまでをも対象として、哲学とは互いに重複し合っています。つまり双方とも、未開なグレーな分野まで、それなりに“仲間”として受け入れ、その“Xさん”を最大限に尊重します。ゆえにそれは、一種の考え方や心の包容性の問題で、哲学的なのです。

《生命情報》=世界観は、スペクトラムをなす

どんな人でも、それぞれに自分の世界観をもっています。言い換えれば、その人のID(アイデンティティー)に基づくものの見方です。そしてその個々の世界観という容器を満たしている内容が、その人のもつ《生命情報》です。つまり、その人の持つ無数の《生命情報》を総合したものが、その人の世界観ということとなりましょう。

たとえば、一人の人物の世界観を形成する要素は、最も広いものから言えば、日光とか空といった地球規模のものから、空気とか水とかといった自然的なもの、食料や土地といった生物的なもの、文明や歴史といった人種、民族にかかわるもの、そして文化、伝統、言語といった民族や国や地方にもとづくもの、さらに、家族といえば血縁に関わり、カップルであるなら二人間の絆などがあげられ、そしてそれに加えて、自分だけ(IDの中核)の要素としては、年齢、LGBTQ+特徴、身長、体重、趣味,し好ながあげられます。このように、以上に並べた順番は、共通性の大きなもの、つまり一般的なものから、共通性の少ないもの、つまり個別的なものへの順番です。

こうした共通性の大小を尺度として並べてみれば、それは一種のスペクトラムになります。それは下図のように、共通性の度合いによって、最大のものから最小のものへとグラデーションをなしているものです。この図では、最大の共通性は「80億人」で共有されているもので、最小のそれは「1人」だけのものです。

ですから、一人の個人を取り上げてみれば、その生命や生活は、こうしたスペクトラム状のすべてを股にかけて行われており、それが日々のその場、その必要に応じ、どの切り口――たとえば、「国」なのか、「地方」なのか、「家族」なのか、それとも「自分」自身なのかといった――によるものかを適宜、選んでいるわけです。そうした一つひとつが、《生命情報》と呼ばれるものです。

どういう場に立つにせよ、私たちは、その人生を送ってゆく上で、こうした様々の切り口における《生命情報》を駆使しています。したがって、頼み甲斐があるからといって、科学的知識のみに基づいているわけではありません。

つまり、《生命情報》とは、哲学的で、共通性のスペクトラムを内包し、人の数だけあっていい、というモノ/コトです。

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