続・二つの「縁」をめぐって

7月5日付で「二つの「縁」をめぐって」との〈老若コラボ報告〉を書きました。これはそれに続く報告です。

まず、その二つの縁「血縁」と「氣縁」をめぐって、7月11日、Kさんより、以下のような質問をもらいました。

ひとつ、気縁と血縁に関することでご質問があるのですが、よろしいでしょうか?

はじめさんは、氣縁を「メタ圏の人間関係」と定義し、ある種の‘きっかけ’を出発点として交流による関係性の結果のよるもので、時間的経過に左右されないと述べています。

コロナをきっかけに、様々な物理的な距離が測れる措置がとられることでメタ圏内でのコミュニティ形成がより促進されていると思います。公私ともに関係性の在り方や、コミュニケーションの取り方について多くの人が考える時間になっている今日だということです。

物理的な距離にとらわれない、「愛」のようなものが形成され、肉親や血のつながりはなくても、「気」を軸とした関係性が構築されれば、孤独に苦しむ夜を少しでも少なくできるのではないかと考えている次第です。

そういった意味でいうと「気縁」は次世代の人間関係構築のスタンダードになるのではないでしょうか。

しかしながら、高齢者の孤独死や、無差別テロのようなニュースを見ると、愛も、金もなく、絶望している日本人が増えているということにも気づかざるを得ません。

今日の、少額の遺産相続による血みどろの戦いを繰り広げている家族や、社内でのいじめ、家族も友人もなく、救いの公的サービスにたどり着けない独居高齢者、30年を超えるひきこもりの方が、どのように、「気縁」を築き、それを足掛かりに自分の安全圏を拡げていくことができるとお考えになられますか?

なにか参考になるキーワード等がもしございましたら、ご教授いただけますと幸いです。


この質問に応えて、7月11日、私は以下のような返答を述べました。

質問いただき、ありがとうございます。

実は、結論的には同じようなことを、アプローチの角度はちがうのですが、考えていたところです。

というのは、ご案内したように、今、アメリカ人が著者の本を訳しているところです。「両生歩き」の7月7日号より、その連載を始めた本です。

この著者の本を訳すのはこれで3冊目(既刊二冊は「両生図書館」に収蔵)なのですが、前々から、あることに気を留めてきています。それは、私のような無宗教人間が受け止める、ある種の「宗教臭」と感じられる考え方、ことに言葉使いで、それはやはり、この著者の奥深いところに宿っている、宗教、ことに、アメリカ人ですから、キリスト教とのかかわりのようだと思っていたわけです。

そして、ことさらにそれを感じさせられるのが、彼が使う「愛(原語ではlove)」との言葉です。

特に、彼がその言葉を使うのは、アメリカ社会に限らず、この地球上のさまざまな社会の問題を解決する最終的な取り組み方は、やはり「愛」をもってすることだと述べているところです。

このへんの彼の考えの詳細内容は、その本に実際にあたって、正確に確認してもらいたいところですが、その彼の思考のプロセスで注視しておくべきことは、そういう結論が、いわゆる信仰心が先にあって、その適応としてそう導かれてきているのではないことです。一定の論理的思考プロセスを経た後の論理的結論としてのもので、いわゆる「お説教」ではありません。

それを僕は、そういう思考過程を翻訳を通して接していながらも、一種執拗に、そこに漂う「宗教臭さ」とせざるを得なかったのでした。

そうした、一種の勘ぐりをもって(日本人と比べ信仰心のあつい)「アメリカ人臭さ」かと受け止めていたのですが、それは僕の短絡的な発想でした。

そんな経緯があって、今回の翻訳の開始に当たっては、その案内記事(「訳読コメント(その1)」)に、そこらあたりの事情を書いておきました。ちなみに、これを読んだ著者は、I liked it…と書いた返信を送ってきました。

さて、前置きが長くなりました。

つまり、ご質問のキーワードに当たるものといえば、以上のような次第で、「愛(love)」ということとなります。

それがどうしてそうなのか、そのへんの話となれば、これはこれは長い話となります。

しかし、そこを濃縮して結論となれば、自分でも「やっぱりそういう言い方となるか」との思いを持ちつつ、言葉としては、しごく常識的な返答であることは止むをえません。

そう言葉としては簡単明瞭なのですが、僕にとって、この言葉に至るまでの道のりは、それこそ、75年を要した長いものでしたし、その道程には、たくさんの失敗もありました。

そうなんです。お尋ねの、あなたがいろいろ例をあげるケースにかかわるだろう、そうした人間にとってのもっとも肝心な源でありながら、もっとも枯渇してきているそれを「キーワード」として質問されると、やはり返答は、「愛」となります。

ちょっと前までは、「愛」という言葉は、ちょっと恥ずかしくて言えませんでしたが、年食って、厚かましくなったというより、いろいろ無駄な枝葉を切り落としてたどり着いた先は、そこであることに気付いたわけでした。

K君も十分承知のように、言葉として、英語の「love」 と日本語の「愛」との間には、微妙な意味の違いがあり、ことに、上記のような意味では、日本語では「博愛」などとの言葉を用いたりもします。

ここに述べてきたこのあたりの「愛」だの「氣縁」だのについては、これはもはや言葉の問題ではなく、人間の生き方の実践の問題であって、上に引き合いに出したアメリカ人著者の結論は、今の世界の混迷のありさまは、世界が次の次元へと変化する前夜だからゆえと述べ、その変化を推進する本来の原動力は、この「love」であるとしています。

もし、この著者の見解に興味がおありでしたら、その3冊の著作の「みだし」でも一覧してみてはいかがでしょう。彼の思考分野がいかほどのものか、見渡せると思います。

僕は自分では、自分を宗教嫌いとし、神頼みの話には乗らないようにしているのですが、最近の自分の書き物の内容は、けっこう、それに近い領域に踏み込んできています。

だからこそ、科学と宗教の間に横たわる大きなギャップに、なんとか橋を架けたくて、自分なりの理屈を追っかけてきているのが「理論人間生命学」です。

また、やや話は跳びますが、自分もそう遠くない将来、その境目を通過してゆく永遠の旅立ちをしなければならず、それだけに、そこにある問題を「越境問題」なぞと呼んで、同類の問題としてきたりもしています。

ご質問いただいたそのポイントは、実に大切なところだと心底思います。

以上、質問への返答としては、「愛」という、きわめて単純で、しかもすでに宗教界では古臭くもある、その言葉の取り上げとなりました。

あなたも質問文でその言葉は使っていられ、僕も「宗教嫌い」を自称しつつも、科学の向こうのその領域のあつかいに無神経な人間にはなりたくなく、同じ「愛」という言葉のそうした使い分けという意味で、僕の体験がお役に立てるのなら、それこそ「老若コラボ」のいい実例であって、嬉しい限りです。

また、Rさんからは、7月13日、次のようなメールをもらいました。

いま勉強しているマインドフルネスとメディテーションのコースの資料です。面白いです。私たちが話していたこととつながるなと思いシェアします(以下がURLです)。

https://www.ted.com/talks/devdutt_pattanaik_east_vs_west_the_myths_that_mystify?utm_source=tedcomshare&utm_medium=social&utm_campaign=tedspread 

この「私たちが話していたこと」とは、思想の東西の違いとその融合という話題です。上のシェア提案に応えて、別の角度からのシェアを提案します。これは、「両生歩き」に掲載されている私が翻訳した記事ですが、「西洋にとっての禅」とのタイトルの、禅思想を西洋人の目から見た解説(鈴木大拙の著作選集への元ニューヨーク大学教授によるイントロ)です。けっこう学術的な文章で、東西の融合とはどういうことか、そうした角度からの見解です。

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