《越境》の日常化

かくして、私にとっての《越境》は、以上に述べたように思念的かつ実例的リアリティーを持ってきています。ゆえにそれは、もはや《越境》として、あえて非日常現象として特別扱いする対象ではなくなってきており、むしろそういう日常が始まっていると言えます。ただし、この「日常化」には、注記しておくことがあります。それはおおよそ、その「日常化」との言葉にはそぐわない、日常をあえて差異化するように、極めて非ルーティン的な取り組みで支えられるものです。

別稿で「ポンコツ車」との譬えを使って述べたように、その「日常化」は、メンテナンスという「仕事」によって支えられ、同時並行してゆくものです。言い換えれば、そうした「仕事」から緊張感を失わせ、その熱意を抜かれれば抜かれるほど、自動的にその「車」は老朽化の度を早め、文字通りの「境界」すなわち死線を越えてゆくこととなります。

このようにして、量子状態、つまり、《主体・客体の合一状態》――この状態は、仏教的に見れば「菩薩」とか「一如」とかに繋がって行く通路かも知れません――を前提とする日常が始まってゆく時、そこにあらたな「働き」の視界が広がってきます。

今後、そうした日常によって築かれる社会を、いま仮に「量子発想社会」と呼んで、主客一体し、生と死が交差し、ゴールがスタート地点ともなる空間を創生してゆく機会となって行くのだろうと予想します。

よってここでひとまず、この「僕ってどこまで〈量子的〉」のセクションを閉じ、あらたな取り組みへと進んでゆこうと思います。

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