量子論は“エロチック”

以下に書くことを、量子理論のいう「雲状の存在」の詳細描写とするなら、それは「多大な誤解」ではないかとの「科学的」批判を受けることになるだろうことは承知しています。しかし、本理論人間生命学における「理論」とは、その「科学」がまだ排除している一種の仮説や推測をも領域内に取り込み、かつ、私たちの生命の現実感にそった実用性――科学的立証を待っていられないのっぴきならぬ生命の問題――をも重視するものです。ある意味では、「科学」の未来を先取りするものとも言えましょう。

したがって、そうした牽強付会も有用な手法とする本考察は、自分の生きている実情こそがその量子理論の現場と言う発想に基づき、そこからの具体的描写へのそうした科学的批判は、両者間の、いまだ相寄れない距離の問題がゆえにであると考えます。

そういう、量子理論のいう「雲状の存在」をはるかに遠望し、私は、いまに生きるこの現実が物語るストーリーを対置させます。そうすることで、この距離がどれほどのものかを、互いに排除し合って我関せずとしないでまず明らかにし、その上で、その距離の中身の問題に取り組んで行けばいいと考えます。

さてそこで、その「量子雲」の中での話となりますが、それは、+と-とか、N極とS極とか、右スピンと左スピンとかと、あらゆるモノゴトの原点に見られる一対になった組み合わせとして存在する《対要素》の問題です。つまり、モノゴトを全体として捉えるには、その一対を総体として捉える必要があり、個々別々にして取り上げても、それは意味を持たないとは言わずとも、片側のみの事象です。

そこでですが、人間には、男と女があります。さらに、この地球に存在する生物は、雌雄の分離を通じて、その進化を遂げてきました。そうした生命の進化の頂点にあって、私たち人間の一人ひとりは、自分を、男か女か、そのどちらかとしてしか人間であれなくなっています。

むろん最近は、その分離が困難なDSD(性分化疾患)と呼ばれる事例も増え、話はそれほど単純ではなくなってきている面もあります。あるいは、あえてその境界を越える一種の自演スタイルやトランスジェンダーも増えています。それに、その境界を取っ払って祝福する「マディグラ」といったお祭りも催されるようになってきていますし、さらには、あえてジェンダーを区別しない「ユニセックス」の生活様式も登場しています。

ともあれ、私たちの大多数はその日常で、個的特徴の幅はあれ、自分を男か女かのどちらかとして生きることとなります。そこで、この一方にしかなりえないという生き方の定着について、それは、量子雲の世界から言えば、不自然極まりないことで、まったくの片手落ちなあり方を踏襲していることなのではないか、という説を提唱することとに至ります。

したがって、私たちが男として、あるいは女として生きなければならないこと自体が、量子的には誤った認識である、ということとなります。

逆に、量子論の側から言えば、男と女が「エンタングル」した、あるいは「重なり合った」状態こそが、その全体性を表した認識である、ということとなります。

これは表現としては、なにやらエロチックな言い回しとはなりますが、もはや人類の進化は、男女分離した生物的進化を遂げ切って、それを《対要素》として互いに両属する認識の時代へと踏み入ってきているのではないのかとすら考えられます。

それに、DNAシークエンシングからみれば、性別自体がその配列の問題でしかないのであり、そのコピーにエラーがあって突然変異も生じうる、そういう生物情報上の違いの問題であるということともなります。

進化史上、雌雄が分かれていた方が、結果として、合理性をもつこととなったのは確かでしょう。あるいは、そういう進化を地球上の生物はとげてきたのは確かでしょう。しかし、その雌雄分離にしても、いまや遺伝子組み換え技術によって、理論的には、いかようにも操作が可能となってきています。つまり、性別の問題は、いまや、技術上の選択の問題とさえなってきていると言えます。いうなれば、それは偶然の出現から意図的な選択の問題へと変じつつある、と言っていいでしょう。

ところで、上記のような、「エロチック」な状態が、量子論の根幹であるとするならば、俗に言う「切っても切れない男女の仲」といった表現も、俗な意味を越えた量子的真実を語ったものとして、そうした認識こそが、もっとも合理的なものである、ということとなります。

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