最終章 私式「双対性」の在り方

これまでの7章にわたって、先の「理論人間生命学」の中核概念――「生命情報」――を多角的に描写してきました。そしてここに最終章を迎え、そのように積み重ねられてきた考察を集約し、新たな進展へと展望する、以下に述べる二つの役割と位置付けを確認して、そのまとめとします。

そこでこの「二つの役割と位置付け」ですが、それは、第7章の〈「究極のゴール」との《収れん》〉というタイトルに示唆されています。つまり、その第一は、その「究極のゴール」が、私の具体的人生への「役割と位置付け」――言うなれば「道標」――として、そうであるだろうということです。

そしてその第二は、その私の人生が生産してきた考察実務の二本柱、『両生歩き』と『フィラース』が、その「究極のゴール」と展望される《非科学-科学》に関し、前者を各論とし後者を総論とする、《収れん》の場としてそれぞれ役立つことになるだろうということです。

すなわち、私にとって、当初の地理的移動に基づく「日豪」概念も、その思想的発展の「両生」概念も、そしてこうした発展の道具となってきた『両生歩き』と『フィラース』という二つのサイトが、いずれも、哲学的レベルでの「双対性」の、それぞれの段階での在り方を例示してきているものです。

そうした経緯から、私にとって、この「双対性」という概念は、ある意味で象徴的であり、同時に、実に掛替えなくかつ根拠あるものであり、他方、それは今後、量子論のいう同質な概念と、どう結びついてゆくのか、大いに期待されるものです。

《非科学-科学》という“冒険”のはじまり

私にとってこれまでのそうした考察のプロセスは、文字通りの――論理の上でも形態の上でも――紆余曲折をたどってきました。それは、まったく手探りのなかから意味と行方を探る作業が避けられないことから、自分の仮説や既存説の牽強付会など、可能な限りの手掛かりを活用してきたためです。

そうした暗中模索の結果に、いわば奇遇のようにも到達しているのがこの地点であり、この《収れん》です。

こうした経緯をへて、私の主作業は、今後、その「究極のゴール」、《非科学-科学》論に入ってゆくこととなります。そして、本サイト『フィラース』は、その総論(『両生歩き』はその各論)を受け持ってゆくこととなります。

そうした「役割と位置付け」から、新たなカテゴリーとして《非科学-科学》――これまでの諸カテゴリーの中でも最重量級――を設け、その実作業に関わってゆきます。

果たして、私という限られた身心両面の能力が、このような極めて大上段からの議論に耐えられるものか、まさしく、冒険的な、「山頂なき登山」への踏み出し、あるいは、「海図なき航海」への船出です。

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