「からだへの共感」

私は、兄弟サイト「両生歩き」のサブサイト「私共和国」で、自分の健康への取り組みを子細に述べてきています(ちなみに、その健康関連の記事がこのところの人気訪問先――この分析記事を参照――となっています)。そして、こうして〈二本立てのサイト構成〉をもって表現してきた私の“後期高齢者”人生のコンテンツは、その二本柱の融合状態へと発展し、いまや予期もしなかった果実――この「生命情報」はそのひとつ――を結びつつあります。そうした健康への取り組みにあたっての私の姿勢の核心を述べれば、「からだへの共感」ということになります。

ところでこの「からだへの共感」という表現は、A・キンブレル著/福岡伸一訳『生命に部分はない』の結論部からの借用です。

この本は、私がこの「生命情報」という考えにたどり着くにあたり、多くのインスパイアを得た福岡伸一博士の諸著作のうち、そのいわばデビューの書の『生物と無生物のあいだ』を書く原点ともなり、その翻訳も行った本です。そして同博士は「訳者あとがき」にこう述べています。「のちに、私が、生命をめぐる問題を考え、ものを書くようになった、その最も初めの喚起を促してくれたのが本書だった。(p. 561)」

そういうこの著名書『生命に部分はない』から引用したい語は、この「からだへの共感」以外にも、いくつかあります。それらは、「共感の原則」であり「無償供与の原則」というものです。つまり、こと生命を扱うに当たっては、この二つの原則から外れてしまってはならないという深い指摘です。私はそれに完全に同意し、かつ、上記の「二本柱の融合」とそれがさらに融合して、この「生命情報」という私にとっての新たな柱が構築されてきました。

「健康」という人生の起点と帰結

このように、私にとって、健康とは、単に〈病的ではないこと〉なぞをはるかに越えて、生命の営みの日常活動レベルへの反映といった、実に根源的な取り組みであると認識するようになってきています。上書の結論部である第23章は「『からだ』についての思考改革」と題され、そうした取り組みの骨格となるべきいくつかの要点がまとめられています。その中で、「効率主義を超える『共感』」と題した節では、こう述べられています。

 現在、からだに対する私たちの行動は、他の多くの自然に対応するときと同様、効率主義の原理に支配されている。からだを生物機械とみなし、無駄なく効率よく使おうとしている。仕事の現場であれ、医療の現場であれ、原則は単純明快である。最小の入力および最短の時間で、最大の出力。非常に判りやすく、誰も効率主義に反対できない。
 しかし、仮に自分たちの子供をこの効率主義の原則のみで育てれば(最小の食事、最小の愛情で、最大の尊敬を得て、最高の成績を期待する)その行為は間違いなく病的なものとみなされるであろう。同様に、友人やあるいはペットにこの効率主義で接すれば、精神科医にみてもらったほうがよい、といわれるはずだ。日々の生活では自分の愛するもの、大切なものに対しては効率主義だけで接することはもとより、効率主義を前提とすることさえありえないだろう。
 そこにあるのは「共感の原則」である。子供にせよ、配偶者、友人、ペットにせよ、基本的姿勢としてあるのは効率ではなく愛情である。(p. 541)

この引用を到着点に、私がその一連の見解に接したのはこのほんの数か月の間であったのですが、それは私の、ことに健康への長年の取り組みの姿勢として到達してきていた核心と、そのものずばりに代言してくれるものでありました。そして私の姿勢が、単に、自分の健康のためだけの原則ではなく、広く誰もの「からだ」の原則として述べられていることと会い重なるものであったことに、驚きを伴う大きな歓喜をもたらしてくれています。だからこそその原則を、私が言う「生命情報」の心髄をなすものであるとここに取り上げることに、何の躊躇も持たないのです。

〈フリー〉という至高の財産

読者もお気付きのように、私は、こうした自分の二つのサイトを、広告も載せない、購読料も取らない、純粋〈フリー〉のサイトとして、もう二十年近くにわたって発行してきています。当初は、いろいろな逡巡もないわけではありませんでしたが、今にいたって、その〈フリー〉という原則を貫いてきたことは、間違いではなかったとの自負を抱いています。そしてそれを原則として考えたのは、物事には、商品にしていいものと、してはならないものがあることに気付いたときです。そこで取り上げるのが、上述書の『生命に部分はない』が指摘する、「無償供与の原則」です。

ただ、上記のような私的原則はともあれ、この原則を人間社会の公的原則として説明するには、まずその導入として、人類学をめぐるちょっと長い引用が必要です。

 メラネシアのトロブリアンド諸島は、ブロニスロウ・マリノウスキーによる人類学研究の古典『西太平洋の遠洋航海者』の舞台である。1922年に出版された彼の書は、この西太平洋諸島を生活拠点にしていたマシム族の一グループの生活を観察したものである。マリノウスキーは第一次大戦中の数年間、主としてトロブリアンド諸島で生活し、島民が冒険好きで勇気ある海洋民族であることを知った。マリノウスキーは、英雄ジェソンに率いられ、アルゴシー号に乗って地中海で活躍した伝説上の海の勇者たちを想い起した。
 海洋民族の常として、トロブリアンド島民もまた盛んな交易を行っていた。しかし、この西太平洋の交易のやり方には、非常にきちんとした取り決めがあった。まず、多くの製品をごくふつうにやりとりするギムワリという交易。ギムワリではいつも念入りに製品が検分され、しつこく値引き交渉が繰り広げられる。しかし島民たちには、これとは別にクラとよばれる交易方法がある。クラには贈り物の交換という儀式的要素があり、おごそかで公平無私、真面目な態度でことが進められる。
 (略) 
 トロブリアンド島民は、交易の営みと贈与の営みを厳格に区別していた。クラの作法は厳しく守られ非常に大切なものとされている。日頃頻繁に行っている物々交換とは厳密に区別している。クラの儀式をすばやくやりすぎたり、なおざりに行ったりすると「クラをまるでギムワリ(の交易)のようにやっている」と非難をあびたりすることになる。ギムワリは終始話し合いのなかで行われるが、クラの贈り物は沈黙のなかで執り行われる。
 マリノウスキーの記述した海洋民族たちの例は、何も特殊なものではない。贈り物の供与は、さまざまな社会で経済的にも社会的にも生活の基本的な要素を形づくるのに役立ってきた長い歴史をもっている。物々交換してよいものと、交換してはならないものとを厳密に区別することによって社会的結束を保ってきた文化は多い。アメリカ北西部先住民、中世イギリスの農民、サモア人、古代ローマ人などまったく異なった文化圏で、いずれも売買可能な日用消耗品と、売買の対象としない品とを区別している。日用の交易品の外側におかれた品々は、尊い物とみなされる品である。食物、芸術品、自然界の内の大切な物、信仰上の用具などのなかで、その実体にかかわらず、尊ぶべき物であり値段がつけられないものとされる品がある。
 (略)倫理学者トーマス・マレーは記している。「値段がつけられない物に価格を与えることは、それをおとしめる行為である」。身体が生きている感覚を体現している限りにおいて、身体は尊ぶべきものである。

(pp. 551-4)

以上が人類学を根拠とする導入です。こうして厳密に区別される、交易品と贈与品の重要な違いに立つという、そうした伝統の今日的意味は何かです。そして、同書『生命に部分はない』はこう続けます。

市場主義が、何を尊ぶべきかという考え方をねじ曲げてしまったのは明らかである。土地にせよ、食物にせよ、からだにせよ、市場主義は尊ぶべきものに侵入し、商品化の神話をつくり上げた。社会をおおう市場主義の覇権に対抗し、市場主義とは反対の考え方、すなわち無償供与の原則を再考すること、そしてこの二つの考え方のあいだでバランスを図ることは、長年のツケを清算することでもある。古い文化から学ぶべきことは多い。贈与の原則や何を尊ぶか、という重要な問題の再認識は、最も優先して学ぶべきものである。
 (略)
 市場主義と異なり、贈与は共同体の意識、相互扶助、尊敬の念といった気持ちを増強し、人間関係の結びつきを促す。これは、市場主義に対する一種の解毒剤である。
 (略)
 人間のからだの問題では、贈与によって人間関係が確認されるという点はさらに重要なものとなる。

(pp. 554-6)

ところでこの「生命情報」とのアプローチでは、前回、「生命“偽”情報」の見方を述べました。そしてその「偽物」を偽物とは見えなくさせているものが「マネー」で、そのマネー価値を数字でしめされることにからくりがあると述べました。そうした視点を、別の角度から述べているのが、この市場主義とは反対の「無償供与の原則」です。

「からだ」と「私」の相互尊重/共感関係

ここでいよいよ、私にとって、私自身(の意識)と私のからだとの関係との視点に入ってゆきます。すなわち、ここに、なぜ、私も私のからだも、ともに命ある存在との問題が避けられなく重要なのかということです。つまりそれは、もちろん、市場主義に毒されてはならないもの同士であり、私にまつわって同時同居し合っている両者のあいだのバランスが大事であり、お互いがお互いに依存し、導き合っているという、相互関係にあるがゆえにです。

私がいま、自分の健康維持というねらいにおいて自分のからだを考える視点も、まさにこの尊重と共感です。すなわち、私が自分のからだへの尊重と共感を深めれば深めるほど、私のからだはより良好な状態となり、それがまた自分の心の在り方に反映してきます。

これは言うなれば、一国の長と民の関係にも似ていて、国の長は民を尊重し、民はそんな長を信頼して支えるといった、民主主義がうまく機能している状態とも言えます。それとは逆によくあるのが、民/からだに対して体裁や無理を押し付け、独裁者のごとくふるまって短命で尽きる長/私の事例です。

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