人生はメタ旅へ向かう(4)

第4章 「メタ旅」という人生攻略法

はじめに

本章では、あまり詳細に立ち入らないで、大局的で大ぐくりな話、今の言葉でなら「ざっくり」とした話から、「メタ旅」というものを考えてみたいと思います。

そこでまず、自分を自分の意識のままに、それを所有していると奢ったり、それほど惨めと沈んだりするのは、だれもそうではあるのですが、止めておきましょう。意識ってもともと、スクリーンに投影された単なる映像にすぎないからです。

そういう意識ですので、前章で述べたように、それは非常に可塑的です。つまり、粘土のように、どんな形にも成型することができます。

つまり「メタ旅」とは、そういう可塑的な意識を自分でどんな風な形にしてゆくのか、そういった、いわば陶芸師のような目をもって、「人生という旅」を旅してゆこうとすることです。

そこでまず、前章までの話のポイントのおさらいをしておきます。

「メタ旅」には、基本的な条件作りが肝要です。まずは身心ともの健康維持が大事ということです。これは一見、当たり前なことですが、それをさらに、身体の筋肉とともに「メンタルな筋肉」――「心の筋肉」と言ってもいい――を保ってゆくことです。そのようにして普段より、私たちがメタ旅にいつでも取り掛かれる準備を、身体とメンタルの両面で整えておくことです。そしてこのメンタルな筋肉作りに「回想」という方法が有効でありました。そしてその方法は私の場合、日々の過ごし方の中に自分像を何らかの形で残しながら年齢を重ねてゆくという、一種の外部記憶装置のコンテンツとして自己情報を蓄えておくことでした。

「街角ピアノ」

ここでひとつのエピソードを取り上げます。それは「街角ピアノ」という、NHK BS1で不定期に放映されている番組です。それは、日本ばかりでなく世界の街角に置かれたピアノを、通りがかりの人が弾く様子を届けてくれるものです。その番組で私が印象深く受け止めていることがあります。それは、けっこう多くの”普通の”人がピアノを弾くことを趣味や人生の余技として持っていることです。そしてそれだけでなく、自分が遭遇した苦境の時、ピアノを弾くことがその克服を助けてくれたという話がほとんど毎回のように演奏と供に語られていることです。

そうした「街角ピアノ」を弾く人たちには、現在、そのスキルの習得中という人もいれば、昔に習っていたという人も、また現在ピアノを職業にしているという人もいます。そうした多彩な人たちが、それぞれに自分の思いのこもった好みの曲を、日常生活の中のそのちょっとした機会に、そのふとした街角で弾いて、そう自分を表現しているのです。それは少々勇気のいることです。そうしたちょっとした人生ドラマが、ピアノを媒介に、街角の人々の間で取り交わされている、そういうシーンがそうあることがとても感動的です。

私の場合、同等なことは、ピアノではなく、文章を書くことでした。しかしそれは、ピアノや文章でなくとも、ダンスであったり、歌であったり、絵であったりしても、あるいは、そんな恰好のつくものでない何か変った自分独自のことでも可能でしょう。そのような、自分の表現手法を持つことの大事さです。

つまりそういう何らかの手法を通じて自分をもうひとつ違った場へと移動させ、旅先を訪ねて行くというのが「メタ旅」です。

〈二重構造〉の発見

そのようにして「メタ旅」を自分の生き方の道具とすることで、自分の生きる世界にある種の〈二重構造〉を保持することにつながります。

私は若いころ、確かに、そういう〈二重構造〉をひしひしと感じたのですが、それは一種の、今の言葉でいえば「生きづらさ」として体験していました。そういう意味では、その〈二重構造〉は実にネガティブなもので、私はそれを社会矛盾といった角度で受け止めていました。

しかし、上の「街角ピアノ」を弾く人たちように、〈二重構造〉を、ピアノ体験を通じてそのようにポジティブなものへと形を変えて受け止め、だからこその、そうしたふとした場面での披露を通した自己認識にいたらせることも可能です。

ともあれ、それがネガであれポジであれ、そうして残してきたものが一定年月を経た後、予想もしていなかった価値を持った財産へと変質していることを発見するに至っているわけです。

つまり、〈二重構造〉の形成という、あたかもパラレルな世界を作り、持つことの重要さです。

それに、そうしたパラレルな世界を持つことがその真価を発揮するまでには、通常、けっこうな時間を要しており、その間には、まわりの世界にも大きな変化が起こっていて当然です。

「分業」の終りの始まり

ここで話はさらに大ぐくりとなるのですが、世界のそうした変化を先導するのは科学技術上の進歩です。そして、それに応じてそうしたパラレル体験も、IT技術の飛躍的発展を土台としたIT機器の利用が可能となっているからより今日的となっており、個人の発信する〈情報〉が、ネットを介して、距離に無関係に瞬時に伝搬することが可能となっています。

ここで取り上げる視点は、こうした科学技術の進歩がもたらす、私たち自身の生きるスタイルへの影響です。もうすこし具体的に言えば、就職、働くこと、お金を稼ぐことをめぐる常套手段においての変化です。

それが少々昔の場合、広く経済を支えた生産システムは、大量生産、大量消費という特徴を大々的に具現させたものでした。そうした当時の主要生産方式にあっては、大量の生の人間の労働を土台とし、それが〈分業〉によって、高度に組織化され構造化されたシステムを形成している時代でした。そうした社会にあっては、個人は自らその分業がもたらす細分化された部品となって、自分の食い扶持を稼いでいたわけでした。

ところが今日にいたっては、そうした生産様式において、たとえば、かつては雇用を奪うとして敵視さえされたロボットが、いまや深刻な労働力不足を補いかつ生産性を上げる有力な手段とされる時代となっています。

加えて、AI技術の発達により、生産の自動化はある種の境界に達してゆき、来る2045年には、技術的特異点(シンギュラリティ)が到来し、人工知能が人間を上回る時代となり、人間よりロボットのほうが賢くなるとさえ言われています。

それほどにまでいたる構造変化が現実に進行しているこの世界で、一人ひとりの私たちの働き方にも、顕著な変化が生じ始めています。それはたとえば、いわゆる「起業」が多くの意欲的な人たちの間で志向されているように、もはや、大きな組織に属し、そのシステムに帰一してゆく生き方のスタイルが、いかにも古臭いとの感覚ばかりでなく、実際上でもの新たな生産方式の実行や創造性を実現する手段として受け止められ始めていることです。

つまり、これまでの、巨大な〈分業〉体制の中での一部分と化す生き方を選ばず、自分が主となって自分を駆使、開発してゆく、そうした方式が着目されてきています。これは、伝統的な〈分業〉体制を組み替えてゆく新たな動向の始まりです。

もちろん〈分業〉というのは、現代にいたる数世紀にわたる産業構造の発展を推進させてきた原動力となるもので、そうは短期間に置き換えられてゆくものではありません。しかし、原初的な〈分業〉構造が時代遅れとなっているのは事実であり、情報産業が主体となった産業構造の変質が起こっていることは確かです。

そのようにして、個人レベルにおいても、情報主体の産業構造の中での求められる技能の要請に応えるばかりでなく、そこに埋没させられない生き方の選択は、時代の要請となっていると言えましょう。そのような展望でも、もはや〈分業〉を主動力とする生産構造の寿命はそう長くないものと予想されます。

そうした意味で、上記のパラレルな世界への展望においても、いっそう情報主体のスタイルとの特徴を備えていって当然かと思われます。そしてその情報も、2章で述べた「情報外の〈情報〉」という、いっそう人間中心の情報概念に立ったものとなってゆくはずです。

意識のより所としての〈情報〉

そのような「〈分業〉の終わりの始まり」といった産業構造上の大局を見据えて、そうした「情報化」の主潮流にあって、そうであればあるほど、私たちが自身の意識をゆだねる〈情報〉世界のいっそうの重要性が浮上してきます。それこそまさに「メタ旅」を実行することです。

それは2章で述べたように、私たちの内なるスマホの活用ともたとえられる、今日の流れである外的デバイスとしてのスマホに頼り切った――そういう意味でのトラップとしてのスマホ=偽情報依存――方向に、一見、逆を行く取り組みです。

ところで、そうしたもっとも信頼を託せる〈情報〉源の発見の方法として、私はここのところ、東洋的な世界観や宇宙観を見直してきているところです。その詳しい議論は、兄弟サイト『両生歩き』の「日本エソテリック論」に述べています。

こうして、二つのサイトでそれぞれに述べてきた議論が、ある面で収れんする気配が見え始めています。

さて、どちらのサイトでメインに議論することになるか、今の段階では未定ですが、この先、改めて、東洋、ことに日本の伝統的思考法についての再考をしてゆくつもりです。

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