第5部 量子的人間観

5.1 量子理論とは

私にとって量子理論は、それがただ物理学上での一つの分野であることを越えるものです。そしてそれは、科学の最も先端分野を成しているというだけにとどまらず、科学が過去、人間世界を近代化する決定的な推進力のひとつであったように、現在の人間世界に新たな方向を与える、次の科学像を形成する人間の新たな活動様式となるものであると考えます。

そしてまた、量子理論は、人間文明がこれまで、主として東西に分かれて発達してきた、その分裂した過程を結びつける、そうした統一の可能性を秘める、そういう意味においても、根本的に新たな思考様式をもたらすものとも考えられます。

量子理論に対する私のこうした認識は、兄弟サイト『両生歩き』に掲載の諸記事――ことに「新学問のすすめ」や「パラダイム変化:霊性から非局所性へ」――を土台に形成され、そして、当サイト『フィラース Philearth』の柱をなす考えの拠り所となっているものです。だからこそ、本サイトのHPの電光メッセージにあるように、「生命論と量子論の結合」に焦点が合わされることに至っているわけです。

そこで、その量子理論がことに、人間世界に新たな方向を提供しているのが、いくつかの難解な特殊用語に託されている、この理論特有かつそれならではの思考上のエネルギーです。

それはもはや、量子理論が最先端の物理学部門であることにとどまらず、哲学や政治思想そして文化、さらには宗教にまでもインパクトを与える、人間文明に一大転機をもたらす、新たなホライズンを見据える動力源となっているからです。

もちろんそうした特殊用語は、それがその可能性を引き出す根幹をなすものがゆえにその難解さを秘めており、さらに、多岐に分かれる詳細な新用語の必要をもたらしていますが、本論では、ことに私たち人間生活に直結する要素として、基幹的な幾つかの用語を取り上げます。

 

旅がもたらした旅

いま私は、世界の新たな発展のスポットとなるべき地域、タイからカンボジアへの地理的旅行をしながら、合わせて、自身にとっての存在上の旅をも体験しています。

そしてその存在上の体験とは、ほんの最近まではことさら意識せずに出来ていたことが、ある時をもって、それが〈出来なくなる体験〉に遭遇することです。そしてそれが、旅行という非日常を実行することに伴って、あたかも一種の負荷となって私の弱点をあぶり出すかのように、その出現を促進する効果をおよぼしています。

その一方、6年前には、不用意な事故をしでかして脳損傷――くも膜下出血――を負うことで、いわゆる瀕死体験に遭遇することとなりました。そして、その体験をもって、自分の身体と意識とがあたかも分離してゆくかのような、確かに特異な体験したのでしたが、それは,その際どい危機をかすめると同時に、一つの開眼をもたらしてくれることともなりました。

つまり、今度の〈出来なくなる体験〉とその瀕死体験とを並置させて考える時、その〈出来なくなる体験〉とは、その瀕死体験に通じる〈小さな瀕死体験〉と重なり合っていることを知ることでした。

というのは、瀕死体験とは言うまでもなく、生死の分かれ目、あるいはその境界上の実体験であったわけですが、片やで、その〈出来なくなる体験〉が引き金となって、その痛撃のあまり、あたりに当たり散らすような狼狽をもたらしていました。まさに自身の醜態をさらす姿を自分で目撃することとなったのですが、その他方で、そんな自身の変容に自分も驚かされながら、すでに自身の死がそのように、部分的には始まっていることを覚らされる機会となったわけでした。

こうして、その地理的な旅は、自分の存在上の旅とも重ね合わさる体験となっていたのでした。

 

人生の出口

今月20日で76歳となる一老人にとっては、いくら日本人が長寿をほこるとしても、そろそろ、そうした「先の見える」体験に出会っても不思議ではありません。それに、親しい友人の中でも、すでに鬼籍に入ったものも出始めています。つまり、そうした人生における「出口」が、まだやや先の事態ではあるとしても、それが視界に入ってきているわけです。

そうした人生ステージにあってのこの〈出来なくなる体験〉をもって、この出口感覚という境界問題への到達の実感が、これまでの私の考察が引き出してきた量子理論の世界との結びつきを、単に理論上の結論としてではなく、ここにいよいよ、自らの現実の変化上のプロセスとして発見する事態となっていたのでした。

そして、その結びつきを決定的に導くこととなったきっかけが、《身体と意識の分離体験》です。すなわち、そうした瀕死体験をもって、自分の身体のそのような危険状態への陥りと、あたかもその事態をいかにも冷静に見下ろし、その事態が深刻であればあるほどに、自分の意識がますます明晰となっている、《心身の分離状態》です。

さて、そこでですが、そうして改めて考えさせられたのは、自分のこれまでの人生体験の中でも、そのような、一種の分離体験は起こってきていたことです。むろんその多くは非常にかすかで、あるいは、特に注視すらされず無視されてきたものではあったのですが、そうした分離あるいは〈他者〉の存在感は、かなり頻繁に起こってきたことだったとの再認識でした。

それは時に、子供のころから感じさせられていた、誰からも教えられたこともない着想や勘であり、あるいは、夢のもたらす妙に現実的かつ示唆的なメッセージであり、さらには、未明時によく体験した眠りと目覚めの境界上での斬新なひらめきの到来である等々、自前の身体資源を土台とする限りではとうてい出てくるはずもない、身体に限られない何かそれ以上の世界と通じているかの自分の意識回路での働きでした。つまり、《身体と意識の分離》なしには起こり得ない、意識と身体の基盤の不一致のもたらす飛躍的な会得でした。

 

発想の主客逆転

そこでその分離と不一致がゆえの会得に関し、まさにその不連続を結び付けうるものは何かと、その探究が必要となります。そこで頭をかすめるのが、量子理論に立ち入る際の壁にもなっている、難解ながらもポテンシャルの臭いのする諸用語です。

そうした特殊用語――たとえば「観察/観測」あるいは「収縮」――について、そうした二種の旅をもって体験することとなった「小さな瀕死体験」に突き動かされるように、そうした用語についてひらめいた解釈を以下のように試みてみたのでした。それは当初、以下のようにノートされたものです。

思考実験として、自分を一つの素粒子として考える、つまり、観察してみる。よってその観察者は、宇宙の普遍の意志態という存在――こういう主客逆転を《量子逆転観》と呼ぼう――である。言い方を変えれば、自分の物体的存在、つまり、命という地球的ローカル性の気付きと、そういう存在でありながら、その普遍存在の視点を持っているという有限と無限を合わせ持つとの《二態性》。

自分が、終局的には素粒子から構成されているとするなら、この二態性は、素粒子のそれを共有したものとしても何ら不思議はない。

言うなれば、膨大な宇宙からすれば、素粒子だろうが人間だろうが、さほどの違いはないのだ。

そうした思考実験の結論から言えば、物理学者たちが言う「収縮」とは、自分が普遍的存在、少なくともその思考や論理が普遍的なものであるはずだったことの、ひとつのローカルでちっぽけな存在に過ぎなかったことへの自分自身の「収縮」をそう呼んだものだ。そして、彼らの言う「観察問題」とは、この《量子逆転観》つまり、自分を収縮させて微々たる存在として見るという視点への“転落”をそう謎めかして表現していること。

どうやら、彼らが使う他者を寄り付かせないそうしたいかにも難解な用語は、そういう彼ら自身の狼狽を互いに隠し合うための隠語と見たほうがよさそうだ。

〔『両生空間』「私共和国《時空トラベル》時代=旅立ち編 TST Day 138(2022年8月12日〈金〉)より〕

つまり、私たち地球人間のもつ意識とは、非局地的(ノンローカル)な宇宙にあっては、地球環境という局地的(ローカル)な条件に基づく所産であって、数々の地球的制限によって限定されていると見なければならないものです。そして、この局地と非局地という、私たちの視野を根源的に転換させる行為を「観察/観測」と呼び、そういう「観察/観測」であるからこそ、従来の地球的概念体系でもっては、理解不能であるわけです。

したがって、私たち地球人が体験する死とは、その局地的活動が終了することを意味するだけのもので、その地球人の生命の発生やその進化の背後世界となってきた非局地的関係までもが終了することでは決してないわけです。

つまりは、観測によって、そういう局地的条件が非局地的条件をもって大きく限定されることを「収縮」とし、そうしてもはや地球的常識は断念され、新たに提示される宇宙的=非局地的原理が適用される――これまでにも度々試みた私式の牽強付会な解釈をもって――こととなるわけです。

そうした非局地的原理の一つが、「エンタングルメント」とか「もつれ合い」とかと呼ばれる、地球的寸法概念ではありえない、あらゆる存在にある一対の要素が、距離とは無関係に同時存在することであり、もはやそこでは、アインシュタインの光速の原理すら、誤りとなるに至るのです。

 

「逆流」人間観

こうして、私たち地球人にとって、これまでのその局地的視野を普遍原理とさえしてきた自己矛盾した視野から、非局地的視野に立って自身を観る人間観が生まれることができ、それこそ、生から死への流れを逆流する生まれ変わる視野であり、それは「観察/観測」どころか、いまやもう「神的」な飛躍行為を意味するとさえ言えます。

確かに、非局地的視野はそうした神髄に触れるからこそ、太古以来、宗教の扱う特殊分野とされてきました。しかし今や、量子理論の登場をもって、それは新たな意味での科学が扱う分野として認識され始めうるもので、理性的人間観として――日常常識となるまでには時間を要するとしても――、現状を精緻に判断するに際しての深淵な考察には、もはや欠かせない思考分野にはなるはずです。

というより、量子的人間観が定着を見せれば、もはや、従来的な宗教世界――多くの偽りやあくどい詐欺まがいの信奉に人々が犠牲にされる――の必要はなきに等しくなり、地球的な局地概念と宇宙的な非局地概念との距離が大きく狭まり、私たちの社会生活、そしてこの地球の環境も、決定的に異なったものとなってゆくはずのものです。

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