第4章 準備的アプローチ

約一か月の中断を経て、再び、この「生命情報」の議論に戻ってきました。

私は過去一か月間、日本を再訪していたのですが、その日本滞在中、この「生命情報」とまでは言えない、いわば従来的日常体験をしながら、それでいて何かこれまでとは違った、一種〈中間的〉な体験を重ねていました。

そこでこの「〈中間的〉な体験」とは何かですが、それを図示すると以下のようになります。

つまり、私はそこで、既述の「人生体験」と「非科学な科学」との間にあって、ひとつの過渡的な体験をしていたと言えます。言い換えれば、人並みな「人生体験」をしつつ、そこから抜け出た、それでいて「非科学な科学」とまではちょっとしにくい、両者の中間にある体験です。いうなれば、「人生体験」以上、「非科学な科学」以下なものです。

私はそこで、この中間にある過渡的な体験を、「非科学な科学」として大上段に構える前の、準備的なアプローチと考えます。つまり、その「非科学な科学」に一足飛びに入ってゆくのではなく、その前段階として、いわば本格的な山登りの前のすそ野の緩やかな登り体験とでもたとえられるものです。

ではその中間的体験とは実例的には何かなのですが、以下、そうしたすそ野体験のうちの主だったものをパターン化して挙げてみます。

同時・無時間

これは、人並みな「人生体験」上では、たとえば古い友人たちと歓談しつつ、追憶にある自分と現在の自分という二者に分かれた自己存在の体験に伴うものです。

ただそれが、過去の自分と今の自分という二人が存在しているというより、その両者がつながって存在しているという感覚で、いうなれば、その二者の間にあったはずの時間の経過というものを無視したり超越したりができるような、両者を一体として捉える感覚です。そしてもしそうできなければ、自分の中に蓄積してきた体験というものが、無数の断片に化してしまうはずですが、実際にはそうはならず、主にその記憶とともに蓄積され拡大して行く、一個の全体性の体験です。

煎じ詰めれば、その「同時的かつ無時間」な感覚です。

「感じ」というもう一つの記憶

私は従来、いわゆる科学として取り扱える思考からは、情緒というものを排除してきました。というのは、その何とも藪から棒に出現し、しかもつかみどころも確かでない代物は、科学という明晰さを誇る世界にはなじまないものと信じていたからです。

それが、自分が思い出す記憶というものには、明瞭な形態として残っているもののほかに、形としてはいかにもファジーなものでありながら、しかし、印象としてはかなりはっきりとしたものがあります。これは決して無視したり切り捨てたりはできないものです。

それをある時から「感じ記憶」と呼ぶことにしたのですが、数十年といった長期の記憶を取り上げた場合、むしろこの「感じ記憶」として残っているもののほうが、より存在感があり、かつ、持続していることをしばしば体験しました。

どうもそれは、数字とか言葉とかといった抽象化された記憶とは種類の違う、別の根拠に根差した、あえて言えば「生な」記憶の世界であると考えるようになっています。

たとえば、この範疇に属するものが音楽で、それがもたらす情念や情報は、あきらかに、科学的なものとは違った回路を通じてのものです。

人と人とをつなぐもの

モノとかマネーとかは、確かに、その明瞭な輪郭をもってその存在や持続を誇示します。

しかし、人と人との関係をつなぐ要素というものを考えた時、そこにあるものは、そうした物的なものではない、心的な要素がより影響していることです。

ことに、具体的な誰かとの関係と言う時、それは、何とも言葉では表現できないながら、それでいて印象の明瞭な、ある種、雲のような思いの作用です。

だからこそモノやマネーは、その持ち主の思いとは無関係に、容易かつ客観的に人の手を渡ってゆくことができます。しかしここでいう心的な要素は、誰それとか、どこかの場所とかと言った心的印象と結びついて存在しています。

               ◇  ◇  ◇

以上のように、従来の科学、つまり、物理的、数学的といった概念からは排除されてきた要素をあげることができます。そしてそれらが、私たちの経験を形成する要素として、意外なほどに大きな役割を果たしてきていることに気付かされます。

ここでは、こうした要素を、まず、「非科学な科学」以前の「中間的体験」として採り上げ、その「非科学な科学」に向けた「準備的なアプローチ」とするものです。

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