人生はメタ旅へ向かう(3)

第3章 健康法としてのメタ旅

本章では、「メタ旅」について、まださほど注目されていないながら実用的な側面に焦点をあててみます。それに確実に高齢者向きでもあります。それは、メタ旅を、狭義では治療法、広義では健康法として活用しようという観点です。すでに、病気予防や健康増進については、身体面への取り組みを柱に、大きな前進を見せてきており、旅一般が広い環境つくりとして、その取り組みの一環となっています。そこでその旅をメタ旅としてそのメンタルな面に注目する時、ある特異な効用が浮かび上がってきます。たとえば、健康維持や増進にとって、運動の果たす役割は一種の万能薬的効用をもって、その取り組みの要となっていると言ってよいでしょう。それと同じように、メンタル面での健康維持対策においても、運動の大事さが着目されるのです。さらには運動は、身体と精神の両機能を健全にかつ総合的に結びつける要素ともなっており、逆に運動不足が、今日の私たちの心身ともの不健康の大きな原因となっています。そしてそのような健康の源泉ともいうべき運動が広く身心両面を結び付けながら実行されるのが旅です。さらに、そうした運動のうち、不健康や高齢を原因として、その物理的運動に制約が生じてきた場合、残された健康資源としていっそうの働きを担うのがメタ旅と言うことができます。つまり、旅がもたらす効用のうち、健康のためにより根源的な働きをなすがメタ旅なのです。

回想法

二十年以上前、私の母親がまだ存命中、夫に先立たれた後、その介護への献身の反動もあって、憔悴し切っていた時がありました。私としても、オーストラリア在住のためにいつもそばに居れるわけではないだけに、何とかしてやりたい気持ちがつのっていました。そうした際、老人医療に心理面から取り組んでいる友人と再会した際、会話の中でそんな母の状態に話がおよびました。すると友人は、自分がいまテーマとして取り組んでいる「回想法」という治療法があり、その臨床試行をこころみていているところなので、私の母親をその臨床事例にさせてくれないかという話となりました。

さっそくそれを試してもらったのですが、その治療の効果はてきめんでした。母親は、友人が巧みに問う質問に答えながら「回想」し、若いころのはつらつと生きていた自分を思い出し、みるみる元気を回復していったのでした【写真】。

夫をなくして2年後、82歳、孫を抱いて

人のメンタルな状態は、ことに日々の断面にあっては、その時に自分が置かれている外的環境に支配されがちです。亡母に生じていたこともまさにそれで、夫の見るに堪えない痴ほう状態の進行の末の死という連なる苦難に会った結果のその鬱状態でした。

そもそも鬱とは、精神と身体との活動レベルに差が生じ、その不釣り合いがゆえの心身症状です。身体にはまだエネルギーがありながら、精神はそれをなくしていてその身体について行けず、その不甲斐ない自分を否定的に受け止めてしまう心理反応です。

亡母の場合、否定的に凝固していた意識の対象野を回想をもって広げ、方向転換させる、すなわち、メンタルな移動つまり一種のメタ旅を行うことで、精神状態の活性化を回復させていたのでした。

私は、心理学ことにその医学的臨床適用について専門家ではありませんが、体験に基づく知見を生かすことはできます。そこで、この亡母の事例で会得した回想法の効用について、その医学的適用というより、常識的活用としてその効用の拡大を考えてきました。

つまり回想法というのは、意識と外部環境との相互関係において、意識の可塑性を利用するものです。したがって、回想法とは、目先の現実に釘付けにされている意識の視界を動かすことで、その意識上への反映を利用していることです。(よってこれを逆に利用すれば、いわゆる洗脳といった意識の人為的操作も可能で、今日の宣伝や軍事的心理作戦の技術は理論的にこの可塑性によっているはずです)。

私は自分自身の体験において、この可塑性の、ネガ、ポジ、両方向への適用のいろいろを見てきました。だからこそ、外からの介入には大いに拒絶的である一方、亡母の成功例にもうながされながら、それの自身への活用という視点で、標記のように、メタ旅のまずは治療的な活用、さらには、それを長期的に拡大して、精神面での健康増進法として考えるものです。いうなれば、私たちの健康対策意識は、ようやく高まってきたとはいえ、まだまだ身体面中心です。

意識の運動としての旅

先述のように「人生は旅なり」です。そして若い頃は、フィジカルな移動としてフルに花咲せてきたその旅が、人生も後半に入れば、事情は大いに違ってきます。ことに現役期を終えてリタイア期ともなると、そうした現実上の物理的な旅に関し、その動機もそれを支えるエネルギーも衰えてきます。そしてしだいに旅についての意欲も薄れ、自分の健康レベルもそれを支えられなくなります。そして同時に、自分の視野も、それに応じた縮小がおのずから生じてきます。

そしてさらに年齢を重ねれば、やがて永遠の旅立ちを迎えることともなります。ただし、こうした永遠の旅に関したメタ旅はまた別次元のもので、「越境メタ旅」とも呼ばれるべきものです。それは、次回以降に改めて論じてゆきます。

そこで、健康法としてのメタ旅を述べるにあたっては、まず、自分の健康維持についての二面のメンテナンスから考える必要があります。それはもちろん、身体と精神という二面です。

ところが、こうした二面について、身体側については、近年、そのメンテナンスについての意識は向上してきており、もう、身体的健康維持に関し、運動の大事さは、もはや常識的な認識になってきているのは上述の通りです。

ところが、もうひとつの精神的健康維持に関しては、それは確かに、身体的な健康が上々なら、合わせて精神的なそれも上々ということで、一種の身体的健康のいわば副産物としての認識が大半であるかに見受けられます。

これはおおいに自分の体験から見出してきていることなのですが、自分の精神的な健康について、それを日々の断面において捉えると、その健康レベルは、身体のそれに左右されていることを痛感します。まして、運動に精をだしてそれを終わらせた時の精神的爽快感は、これは他のなにものにも代えがたい充実したものがあります。

さて、そういう身体由来の精神的健康感はそれはそれで真実です。つまり、単体としての自分個人の精神と身体との関係でいえば、ことに生活上のある日ある時という断面において捉えれば、そういう相互に支え合う関係はそれはまったく正しい認識です。

ところが、そうした捉え方を、時間の範囲を長くして、例えば一年とか、数年とかとして考えてみると、また別のリアリティーが浮上してきます。つまり、そうした断面としての心身供の健康を維持してきたはずなのですが、その自分が存在している世界や空間が、あるものの強弱をもって、決定的に変化してしまっているのです。そのあるもの、それが記憶です。

むろん、記憶に関しては、それこそ深刻な症状として認知症があります。この病変は、ひと昔前までなら痴呆症であり、さらに昔ならボケ状態でした。つまり、そこに決定的にかかわっているのが記憶というひとつの現実反映記録機能です。

たかが物忘れ、されど物忘れ

この記憶というものは、「たかが物忘れ、されど物忘れ」であって、私自身も、その渦中に巻き込まれつつあるのを日々痛感させられています。本稿も、一面では、その危機感なりもがきの中からの産物に違いありません。そして、加齢に応じた身体上の同じような危機感ともがきの体験が、一定の先行する蓄積したある程度の成功体験をもって、このメンタル版の健康法へと発展してきています。

つまり、もしそれが可能であるならば、記憶という自分の世界の反映記録機能、すなわちメタフィジカルな創生源をできる限り維持し、その世界を往時の時のように維持したいものです。言い換えれば、身体的健康が運動を通じてより効果的に維持できてきているように、記憶上の健康をも維持できる、運動に相当するような方法がないものかと、強く願望するわけです。

そこでたとえば、身体的健康維持の秘訣は、体全体の筋肉の働きの維持です。ことに運動機能をつかさどる主要筋肉の維持は最低の必要です。ならば、記憶にとっての「筋肉」といった働きなり部位は何なのでしょうか。

ただ、この疑問に答える、たとえば科学や医学の進歩については、私の知るかぎり、たいして期待に応えるものは得られていません。つまり、いまだ意識や記憶については、その世界でも、「謎」といった言葉が使われているほどです。

そこで、これは私の常套手段でもあるのですが、そうした進歩を待ってはいられぬ待ったなし自分の人生にあっては、確証の面での危なさは承知のうえ、いわゆる体験的知識に立つ手法を編み出してゆくしかありません。

そうした手法として、上記の私の母親に効果的に働いた「回想法」にならい、衰えの不可避な記憶力の維持法として、私は、メタ旅が使えるのではないかと考えています。

すなわち、物的にしろ思念的にしろ、いずれも、目下の地点からの移動による環境変化をもたらすものとしての旅がもつ共通効果です。つまり、その移動をもたらすものとして、上記のように、身体上では筋肉の働きにもとづく運動があり、ならば、メンタルな運動としては、何かあるのだろうとの考察となります。そこで、記憶の「筋肉」にあたるもの〔注記〕として、メンタルエネルギーの発生装置としての自己表現分野に着目するわけです。

〔注記〕もちろんそれを成しているのは臓器上で言えば脳らしいのですが、ここで取り上げているのは、その脳が果たしているらしい機能です。つまり、臓器としての筋肉が生み出しているのが物理的運動であるように、メンタルな運動を生み出している脳によるらしい筋肉相当の機能のこと。

かくして、自己表現による移動としてのメタ旅が目下の手法として着目されます。そしてそこで、メタ旅の動機たる自己表現をもたらすメンタルな筋肉とは、具体的には何であるのでしょう。

メンタルな筋肉とは

それは母親の場合、回想をうながす医療者の適格な質問でした。では、そうした質問に当たるものを、私は自分で自分に問うて行けるのでしょうか。

そこで思いつくのが、いかにも日々の自問自答らしきものとして記録され続けている、昔は日記ノート上の、いまではブログ上の文章です。もちろん、その記録作業にあたっては、それらがそういう意味や効果を持つものとの意識も意図もありません。ただの、生活のその切り口における刹那の自己表現です。

さらに思い出すのですが、以前、サイトに「相互邂逅」という連続記事を掲載しました。それは、私が若いころに書き残していたノートにそれから三十数年後に遭遇し、それを再読することで、あたかも時代を隔てた二人の自分が出会ったかの体験を綴ったものです。そしてその体験のもたらしたものは、まさに、私の母親が自分の若き姿を思い出し、消えかかっていたそのエネルギーに再点火させることができた、それと全く同じの自己再認識でした。

そこで想うわけです。つまり、この私の体験した若いころの自分とは、そのノートの中にそう明確に記録されていたわけで、これは、そのノートが、いわば外部記憶装置として働いていたことです。たしかに、私はそのノートを再読するまで、そういう自分自身については、もう記憶の彼方に遠のき、ほとんど消えていていました。もしそのノートがなければ確実に、過去の私の呼び出しはできず、そういう再会は生じなかったでしょうし、もう一人の自分を見出すことすらなかったはずです。

ここに私は、メンタルな筋肉としての、そうしたノート作りや自己表現、そしてその記録をあらためて読み直す一連の人間機能に注目します。この片やの身体組織としての筋肉と、他方のこの非物質としての人間機能、これら二者を同等のものとして並べるには形態上のギャップはあります。しかしそれを、物質と非物質を結び付けるという異次元をまたぐ――それこそホーリスティックな――概念として受容するならば、それこそそれらは、人間についての新次元の「筋肉」として考えられるものとなります。

ちなみに、この新次元の「筋肉」に関し、それをどう呼ぶかは、少なくとも本稿の上では未定です。しかしいわゆる東洋伝統医療における「」とは、まさしく、そういう次元ものとして、長く理解されてきているものです。

こうしていま私は、衰え行く記憶力に遭遇しつつ、他方、認知症のもたらす悲惨な現実の気配にも思いをめぐらせ、なんとかその“不健康状態”からの挽回はないものかと模索してきたその個的奮闘に、一抹の明るみを見出せるかとの期待を抱きつつあります。

つまり、身体上の健康維持に効果ある運動があるように、メンタルな健康維持に効果的な運動としてのこの〈心身両面の筋肉〉を使う「運動」です。すなわち、そうした「運動」としての、ノート記録なりブログ書きなりの自己表現作業総体です。

そして、そうした自己表現作業を通じて、そのコンテンツとしてメンタルな移動を経験する意味でも、あるいは、日々のノート記録を後日になって読み直す回想としての移動を経験する意味でも、メタ旅のもたらす治療効果、健康増進効果、ひいては自己創発の効果は、おおいに期待されるものであることを確信するものです。

自分創りの運動としてのメタ旅

もし、上記のようなメタ旅の治療なり自己創発効果が現実的なものであるならば、これまで、身体的健康対策として奨励されてきた健康的な――生活習慣病をもたらさない――ライフスタイルの中に、そのメタ旅をも組み入れることもあり得るでしょう。

具体的には、衰え行く記憶の世界の補強手段として、あたかもコンピュータの外部記憶装置のように、必ずしも文章に限るものではないでしょうが、何らかの形としての自分自身のその時の姿を記録として残しておくことです。

今日、そうした健康志向の流れは、まずは、ストレスにさらされる毎日のリラックス法とのアプローチとして、瞑想なり、ヨガなり、マインドフルネスなりの形で、一種、コモディティー化されて広がりつつあるようです。

そうした流れの中で、メタ旅とは、日々における自己創出としての手法となるものです。そしてそれはそれがメタフィジカルなものであるだけに、フィジカルな旅を難しくしている人にでも、またそれだからこそ、利用可能な手法です。そしてその旅先とは、いうまでもなく、高い自らの自由さを目指ところにあるのでしょう。

そしてそうした極地は、物的地球を越えた物的自分からの解放、つまり、上記の「越境メタ旅」とつながってゆくものなのでしょう。

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