本サイトの兄弟サイト『両生歩き』に、「相互邂逅」と題した、私の言わば「半自伝」があります。
それは、私が十代半ば以来書き残してきた数十冊のノートを、還暦をきっかけに再読した体験にまつわる、自人生の振り返りの記録です。つまり、十数年前、私はその「半自伝」風の回想記を書きながら、その古きノートに全精魂を傾けて表わされている40年ほども昔の自分――もしその再読がなかったら、そのかつての自分は、おそらく記憶の中の遠いかなたに消えかかっていたでしょう――と、その本人がそのまま、今ここにそう息づいているかのように、まさにリアルに再会していたのでした。
こうして、一人の若き人格の生きざまをそう目の当たりにして、あたかも、時代を隔てた二人の自分同士が「邂逅」するかの、ありえないながら実際に起こった、感慨深い体験をそう書き留めていたのでした。
その「相互邂逅」が、最近、どちらかの読者によって、丹念に読まれているかのデータに接し、あらためて、その一連の記事を、再度、読み直す契機となりました。
するとどうでしょう、この再びの読み直し体験により、最終的には三人の自分、つまり、そのノートを書いているもう半世紀も昔の自分、その若き自分と再会している60歳の自分、そして、この二人の自分に出会っている現在の75歳の自分という、三時代の自分が邂逅する「三重邂逅」を体験することとなったのでした。
それは、ありえないどころの話を超えて、若き自分の生きるエネルギーが今の自分に確かに届いてきており、しかも今の自分の生気を再生さえしてくれていると実感できる、頭がくらくらとしてしまうほどの、まさしく空間がエンタングルする(もつれ合う)――センセーションを狙えば「タイムスリップ」とさえ表現可能な――体験でありました。
つまり、まだ二十代だった当時、日々を生きるもがきの中で自分を絞り出すように記しているそのノートが、果たして生存していると断言すらできない40年後50年後の自分に届くなんてことは、思いつくどころか、それこそ、宇宙よりも遠いことの発想でした。
それはまた逆には、半世紀もの過去へと隔たってしまってただ記憶の中の存在と化していた過去の自分が、今の自分にそのようにリアルに働きかけてくることが実際に起こりうるとなど、予想も、想像すらもおよばなかったことでもありました。
そのようにして、時間も空間も遠く隔たったはずの三人の自分の間に、そのように実際に橋が架かったのです。
そして、こうしてもはや「超然」体験したとも言える「三重邂逅」により、「予想を越えた」などという平板な表現をそれこそ異次元的に超えた、「貴重」どころか、「量子次元的」とでも言えるかの発展を私にもたらすこととなったのでした。
さらに、その超然体験は、その私の持論が「実験のすすめ」ともいうべき実験手段に基づいているという科学的立証原則にそうものであり、しかも、量子理論的枠組みにそって組み立てられたとも表現できる意味ともなりそうです。
またこの発見のさらに意味するところは、私がこれまでに幾度か述べてきた現時点段階での老人と若者間の「老若共闘」が、自分自身の「老若」という時間軸上において、まるでタイムスリップのごとく発生した「共闘」として、まさしく現実に起こったとの発見です。さらにこれは、前者を量子理論でいう「局地」次元とすれば、後者は「非局地」次元とみなせる、量子理論をマクロレベルに適用した発見としてさえ扱えるということです。
以上の体験を総じて言えば、現在の自分の意識なぞはほとんど空虚な残像に等しく、ノートとして記録されている自分の方がよほど充溢しているとの認識です。言い換えれば、現在存在=客観、記録内容=主観と信じられている常識的な認識をくつがえし、今の自意識こそ主観で、記録上の自分こそ客観であるという、《主客の逆転》が起こっているとも言えるものです。
つまりこの逆転とは、記録という《情報》こそが客体としての確実性を形成し、意識とはその時々の断面的な印象を扱っているに過ぎないことを示唆していると言えます。
以上は、この発見ストーリーのほんのイントロです。次回以降、追ってその発展を述べてゆきます。