4.2 「血縁」と「氣縁」

 

物質とメタ間に架橋する

第3部において、物質と非物質に両属する領域を想定しました。そして、その両属域を占める要素として、「氣」という東洋的用語や考えに注目しました。

そこまでは、創造過程としては、もっぱら理論に属する過程とみなせます。

そこで、そうした過程をへての進展を受けて、それをいよいよ、私たちの人生にもっと身近なところへと引き寄せてみたいと考え、この「理論の適用理論」とのサブ分野を新たに想定しています。言わば、理論と現実の間の橋渡し部です。

これは、ひとつのねらいとして、既述のような理論化の後に求められる、それを現実の生活のプロセスの中に持ち込み、どう役立てようとするかの第一歩です。

ことにこの第一歩は、これも本サイトにメニュー欄に新設したばかりの「時空地球」という、地球をめぐる地理的領域を超えるメタな活動――移動やトラベル――の実行を担保する「時空トラベル」概念と、互いにインスパイア―し合うものです。

特にそのインスパイアの実践にあっては、「時空トラベル」のアイデアをもって実行されている「老若コラボ」という具体行動があります。

そして、こうして始まっている「老若コラボ」は、それが動機となって、以下に述べるような新造語を編み出す切っ掛けとなっています。

 

生物人間とメタ人間を分けるもの

ここに新しい造語をこころみます。それは「氣縁」。

この新語――私がさほどフォローしていない“ポピュラー癒し”分野で既に使われている可能性あり――は、「血縁」という既存語に対置させるもので、人間の関係における血縁とは確かに区別される、もうひとつの人間の関係を表します。

血縁とは、「血」つまり「生殖行為」によって出来上がる人間の関係で、家族なり、親戚関係がこれに当たり、種を保存する基盤です。広く、生物としての関係と言ってもよいでしょう。そして、血が物質の一種であるように、血縁関係も物的基盤を不可欠としています。

それに対置される氣縁とは、東洋の伝統医学で言う「氣」をもって結ばれている人間の関係のことで、そこには、血縁の必要も、生殖行為の必要もありません。つまり、物的基盤には依存せず、氣という非物質的要素を通じた関係のことです。それは、社会的人間関係とも重なっていますが、社会には、経済とか政治システムによって組み上がる人間同士間の一種のハイアラーキー関係を含みます。しかし、氣縁にそれは必要なく、あくまでも、一対一の人と人との接触を起点とする対等で自然な結び付きです。

加えてそこには、相互に意識し合える確かな「引き合う関係」があります。究極的には、この引き合う関係を「愛」――性愛的なつまり生殖過程上の「愛」に限られない、もっと広い人間同士の結びつき合う関係――と呼ぶことができます。

血縁は人間の生殖行為の結果による連綿たるつながりのことで、そういう意味では、時間的な縦の関係を経るものです。

ところが氣縁は、人と人とが、何らかのきっかけをもって接し、交流し始めた結果のもので、ある意味では瞬時に形成され、必ずしも縦の時間的経過は必要ありません。今日のように、オンラインによる広範な関係が短時間に形成可能な環境では、その横の広がりには限りを持ちません。

そういう意味で、血縁を生物圏の人間関係とすれば、氣縁は、メタ圏の人間関係ということができます。

 

ところで、私は12年前、還暦を迎えた数年後に、「メタ・ファミリー+クロス交換/偶然」と題した小説を書きました。それは、読みようによっては、体の良いポルノ小説とも見まがわれかねない内容をもつ、異ジャンルの作品です。

それを今、改めて読み直してみると、自分の人生径路の上での、避けられない、ある境界線上で書かれたものであることが解ってきます。

すなわち、小説上のストーリーは、「子なし父親」と「父親なし娘」による疑似親子関係をめぐるやり取りが、ひとつの「歳の差男女関係」へと発展する話です。俗に言えば、そのあたりの年齢の男にとって、ある種の羨望ストーリーです。

ただ、執筆当時の作者としての動機は、還暦を越えて衰えを否定できない自身の身体とそれを認め難い意識との間の葛藤に根差すものでした。書き手としてはそれをそう創作し、避けられない老化プロセスの一段階をそのように対象化することで、せんない動揺におちいることなく越えることができたものです。つまり、そのようにして、自分の生殖期が過ぎたことを、しかと認識することとなったのでした。

 

この創作行為を、上記の「血縁と氣縁」の考察にからめて言えば、自分の血縁形成期が終わったことを確認しつつ、しかしそれでも終わっていない、その後に向かおうとしている何か別の創造期に入ったこと――少なくともその気配――を見出すこととなっていました。

そこで、その「何か別の創造期」とは何なのか、それをその後ずっと考えさせられてきました。これを、上述のような新造語に託して考えてみると、「氣縁の時期」の始まりと言えるものなのです。

それに、還暦なぞまだ遠い先の若い時代にあっても、すべての人間関係が血縁形成圏のものではなかったはずで、むしろ、それ以外――友人、知人そして仕事関係など――の方が広かったくらいでしょう。その意味で、氣縁というのは、若いころからずっとかつ広範に存在してきたはずのものです。

つまり私は、そう創作することで、そういう自分の生物としてのステージ変化を対象にし、それを書き終え、若い時代の危ないほどのエネルギー満ちあふれた生殖過程当事者の役割の幕引きにも、混迷や不安にさらされることなく立ち会えたわけです。そうしてそこに、その時期が終って行った一種の安堵を得ているのも確かです。

かくして、私はこの小説の執筆やその読み直しを契機に、この生殖期の終了について、いたずらな強がりにも、過剰な寂しさにも陥ることなく、今日に至っています。そうして発見しているのが、上記のように、氣縁というもう一つの人間の関係です。

以上のようにして、新造語の「氣縁」について――すでにどこかで使われている可能性のある同様語はともかくとして――、その必要と経緯が示されました。

そして私は、この「氣縁」を適用して、究極的には、量子物理学における「非局地性」をつかさどる要素とも見なして、その人間にとっての新領域を開拓してゆけるのではないかとにらんでいます。

またそれ以前においても、人間の関係における、広く「愛」と認識される純粋に非物質的つながりに関し、それを媒介する要素、あるいは、生物人間とメタ人間を分ける境界因として、この「氣縁」を特定してゆきたいと考えています。

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