「生物学研究者による観察」との想定
前節(「三重邂逅」を体験して)では、自分が制作した情報により、後年、自分が自分に遭遇するという、あたかもタイムスリップしたかの体験を述べ、それが単に個的な偶然事には留まらないとの見解を表しました。そこで、この見解を検証するため、ここに、ある想定をしてそれに臨みます。
その想定とは、私が一人の生物学研究者であるというものです。
ただ、この生物学研究者は典型的ではなく、その研究対象を広く生物各種に置くのではなく、人間という特殊な生物種に絞るとするものです。
しかし、人間に絞った生物学といえば、それはそれで既存のものがあります。その典型が医学で、これは多分野に細分化された応用生物学と言えます。
また他では人類学――生物学としてはむしろ学際的――があります。ちなみに人類学は、私の見るところ、その発端を植民地支配のための一種の「“土人”研究学」を土台としたものです。
そういう、起こりからの偏りを極力排した、人間についての生物学研究、それを「人間生物学」と呼ぶとします。
ところで、研究対象を例えば昆虫とした場合、一方では採集による分類を、他方では特定の虫を飼うなどしてその一生を観察するという、時間軸の横断と縦断のいずれかのアプローチをとるのが通常です。そうなのですが、いずれの方法をとるにせよ、虫類をその外側から観察する点では共通しています。
しかし、人間を対象とする場合、その研究者自身もその対象に含まれるわけで、それに、研究のために人間を飼うという方法もとれません。つまり、「人間生物学」の場合、その対象を研究するには、外側からばかりでなく、自らをサンプルにして、内側からも観察する必要が、おのずから生じてくるわけです。
ちなみに、医学が生の人間を臓器別に細分化された部分のように扱うと批判されるのも、医師本人も含め、人間をその内側、つまり、細分化できない総体として見る観点を欠いていることことに起因するものと思われます。
このように「人間生物学」であるということは、外と内の両側からのアプローチ、つまり、観察と被観察が重なり合う、それこそ「自分を実験台」とする方法が必須となります。むろん、他者の「内側」の観察も形式的にはあり得ますが、それは推量に過ぎず、真の「内側」視かどうかは疑問です。
加えて、生物学が他の学問と区別される決定的な違いは、生命を扱うというところにあります。
いまだに謎の多いその生命に関し、近年の生物学が新たな進展を切り開いてきています。そのひとつが情報生物学と称される分野で、本想定を置く理由も、そうした知見を大いに採用したいがゆえです。
さて、この想定には以上のような狙いがあるのですが、その一方、私が本「理論人間生命学」において「生活者/人」という視点を堅持してきたということがあります。この「生物学」と「生活者/人 」との一見関係なさそうな二者について、そうした想定を置くことで、期せずして、両者間の近似性を発見しています。それが「生きる」ということで、この「のっぴきならない要素」を採り上げれるかどうか、それこそそこに、生命線を分けるものがあるということです。
こうした「のっぴきならなさ」つまりその「あいまいさ」――先に、生命現象に伴う不可避な要素と認識――を、私は、生命を扱う限り「不可避」どころか、生命現象を解明する突破口にもなりうる視点であると考えています。そして、その対象が人間となる時、さらに「意識」というさらに難物――人間生物学の独壇場――が関係してくるわけで、その意味でもその「あいまいさ」に焦点を当て、内外両面からの往復視野を手掛かりにしないでは、その両属性をめぐる生命現象への決定的なアプローチは不可能であると考えるものです。
本論においては、以上のような根幹設定をもって、最終的なねらいである《物質と情報という二つの属性》に接近してゆきたいと考えます。
理論と体験;二つのアプローチの遭遇
先に私は、理論的なアプローチとして、諸科学の知見を量子理論を含めて組み合わせ、下図のような「ユートピア地球」の概念を提示しました。
またそれに呼応して、ここに、「三重邂逅」といった私の実体験をベースに、下図に示すような「意識形成サイクル」をモデル提示します。
この図示という二つの視覚的把握を足場として、理論と体験という二つの方法から得た違った発見を、なんとか結び付けてみたいと思います。それこそ、またしてもの「架橋」です。
「意識形成サイクル」
この「意識形成サイクル」とは、私たちが日常的に行っている体験を根拠に提示される、人間の意識形成における三段階の進展サイクルです。
すでに「三重邂逅」と「自分を実験台」で述べたように、根拠のある――鵜呑みにさせられたものではない――自意識を確かめうる現実行動においては、生命情報がこの三段階サイクルをへて、「点灯」と呼ぶに等しい効果を発揮するに至ると観測されます。
つまり、第一の「感知」とは、私たちの持つ諸感覚器官を通じた情報入力のことです。そしてそれは、各器官がそれぞれに独立に働いているというより、その各々が相互結合した総合的なものとなって、全身的そして全人格的な効果を発揮します。そしてそこには、記憶から入ってくる入力も含め、総じてそれは、非物質的なイメージ像として形成、保持されます。
また、この「感知」は、先に「人生は実験」という見地を述べたように、それが意図的に行動した結果によればよるほど、その把握も明瞭となる性質を持つもののことです。
第二の「編集」とは、そうして入力された自覚的な情報を、改めて整理し、分析し、組み立て直して、組織化する作業です。
そうした明瞭化、組織化された情報に基づき、それをもって出力することが、第三の「表出」です。これはむろん、アウトプットとも、表現ともと言い換えてよく、「三重邂逅」の「ノート」も、これに当たるものです。
こうして、入ってきた情報が三段階をへて噛み砕かれ、融合し、統合されたその頂点において、先にも述べた「点灯」現象として意識が立ち上がってくると考えます。
私の知見の限りでは、この「点灯」現象のメカニズムを解明、実証した研究はまだありません。しかし、私の「生活者」としての「のっぴきならない」立場においては、その解明以前にあっても、充分納得できるレベルに達したものについては、それを根拠に実行動の理由にしうると考えます。言うなれば、生活は科学ではないからです。
以上は、意識の発生に関する体験的な知見に基づく描写――科学上では仮説――です。
ただし、以上の議論は、先の生物学研究の時間的縦横断面という意味では、時間軸上のある時点における横断面においてのものです。そうした様子を、上左図の「ユートピア地球」に当てはめて図化したものが下図です。
その実際シーンを、「三重邂逅」を例に説明すると、私は二十代に、自分の日々を空虚さと「感知」し、それをもがきの中で考えあぐねて「編集」し、その過程も含めて「ノート」として「表出」しました。つまり、二十代という時間軸の一断面――その日々の生活という「局地性」軸と、それを考察・分析する「理論性」軸からなる平面――での意識形成の感知→編集→表出のサイクルをへて、その結果「点灯」した意識を抱いていました。そして、その「点灯」した意識のさまがノートに記され、40年後、50年後と時間の移動先で再読されて、二度、三度の「邂逅」現象を引き起こしたわけです。
量子概念の適用
つまりこのサイクルは、量子理論上の概念を適用すれば、局地性軸と理論性軸のなす平面上で、そうした諸情報のエンタングルメント(もつれ合い)が起こっている様子と考えられます。すなわち、エンタングルメントと意識とは、同一次元上での出来事という解釈ができます。
そしてそれに移動性軸つまり時間軸上の移動がすんだ後から捉えると、あたかもタイムスリップが生じたとも受け止め可能な空間を表しています。これらを図化したものが下図です。
この図は、最初の意識形成サイクルが、時間の経過にともなって、第二のサイクル、第三のサイクルと、スパイラル状に発展してゆくさまを表しています。言うなれば、このサイクルの連続が人生です。
先の「自分を実験台」とする行為は、このサイクルとスパイラルが自覚された場合、それを想定のうえ、あえて自分の行動をおこし、その制御のもとで、そうしたサイクルとスパイラルを実行してゆく、つまり時間軸上を進んでゆくということを意味しています。
私のように、人生の75年を過ごしてきた者にとって、現意識とは、「この意識形成のスパイラル」総体によって「点灯」しているものです。むろんそれは、単に、思い出の累積でも、忘却も美化した人生談義でもありません。それは、この地球という惑星が生み出した人類の一人の、75年の生命の情報の作り出している産物です。
そしてまた、この人生の四分の三のこの時点の先にあっても、また別の「意識形成サイクルのスパイラル」がありえるのも確かです。
むろんそれは、四分の四に達した時点を境に、それこそ圧倒的に未解明な、「越界」のサイクルに入ってゆくことも確実です。