MaHa ねえ相棒君、いよいよ「〈心〉理学」を始めるようだが、どういう風にやるつもり? それに、ちょっと注文をつけていいかな。
相棒 はい、何でも言ってください。どういう注文でしょう。
MaHa そもそも君の構想しているその「〈心〉理学」ってやつは、いわゆる科学じゃあないんだろう。私の理解では「非科学的学問」、つまり、従来の科学の枠組みには捕らわれない学問というか、知的体系というか、そういうもんだろう?
相棒 はい、その通りで、科学の新分野にするつもりはありません。そうなのですが、ならば、どういう形式で表せばいいのか、それが固まっていません。
MaHa そうだろうね。これまでの君の書いたものを見ても、どちらかと言えば、従来の「論文」形式に従っているよね。
相棒 そうなんです。そうと言うのも、そもそも、僕が受けてきた教育ってのは、ことにそれが高等になればなるほど、いわゆる分析知識の厳密性に至ってきて、それに適した表現形式ってのは、その「論文」形式を必須としている。
MaHa これはちょっと乱暴だが、それを「西洋知」と呼べば、その「西洋知」の形式を破る必要があるね。
相棒 確かに、漠然とはしてるんですが、その「西洋知」ってのを念頭におくと、それに対する体系として、「東洋知」って発想はあります。ことに、「西洋知=分析知」とすると「東洋知=包括知」といった風に。
MaHa そうなんだよね。だから、その「西洋知」ってのを視覚的イメージにすると、ひとつのビルディング。地面の上に、いきなり、箱型の体系がつっ立っている感じ。そういうイメージで言えば、君の目指すべきなのは、富士山のような、長くすそ野を引きながら高くそびえる何かって感じかな。
相棒 あるいはですね、表現されたものには、一方で、論文とか書物といったものに対し、絵とか映画とかといったものがありますね。もっと広く言えば芸術ということになるんでしょうが。
MaHa その意味で言えば、科学と芸術を合体させた領域とも言える。とくにその隙間をついて発達してきたのがマンガ。そして動くマンガであるアニメの世界。
相棒 図式的にはそういう足し算や新地開発になりますが、ともかく分析知というのは、要素ばかりに還元してしまった断片化した抽象ですよね。そこには具体性を欠いている。相互の疎通がない。
MaHa こういう議論も分析的なんだが、要は、論文的な観点と芸術的な観点を合体させた、そういう何かを表すことだね、こういうものだって。
相棒 そこでなんですが、ほんの最近、ひとつのエッセイを書いたんです。それは「〈続〉 残雪の山歩きで見えてきたもの」との題名なんですが、自分の体験談に基づいています。地上を行く山歩きでの自然環境との出会いと、空をゆく機中での映画と言う人工物との出会いという、地と空の両世界でのほとんど偶然の遭遇体験を、量子の波と粒の双対性になぞらえて、あたかも、自分を「もの言う量子」とでも仕立てたエッセイです。
MaHa 読ませてもらったよ。なかなか面白い話となっている。ただ、一般の読者にしてみると、この話の結末での、量子理論に結び付けられてい展開は、ちょっとついて行けない話だろうね。いい意味だが、飛び過ぎてる。そのリアルのエピソードがあまりにリアルで、ことにその前編の話はまさに、山歩きの記録。そこから、量子の話に、なかなか移れないだろうね。続編では、1、2、3と、三段構成にはなっているがね。
相棒 その舞台裏の話をしますと、実は、この続編を書くまで、それが量子理論にまで話をつなげてゆけるとは思っていなかった。それを、続編を書いているうちに、これって、量子体験と言ってもいいことではないかと気が付いた。そこで、ちょっと強引な話の展開なんだけど、自分が量子に成り代わって話しているというストーリーに引っ張って行ったんです。まあ、よくあることなんですが、書いている作業が、新たな展開をもたらすけん引車になったんです。
MaHa 君もそこに書いているが、このリアルの人間サイズのストーリーを、量子サイズのストーリーに代弁させるって展開は、もちろん、量子物理学上の話ではない。強いて言っても、SFだ。そこを、「自分実験」として、生活者の次元で展開しようってのは、使える話かもね。むろん「自己責任」で。
相棒 人生って、待ったなしですから、誰にとっても、結局は、みな自己責任ですよね。ならば、学者のように、悠長に構えてはいられませんから、飛躍も超仮説も覚悟の上で、自分で量子の振る舞いを実践する。成り代わってやってみる。自分の内の超高性能計測器をフルに活用して。早い話が、自分自身を最先端の人間量子存在にしまうってこと。
MaHa そんな話、もっとして出してほしいもんだ。