前回では、日本はいまや〈心〉の先進国ということで「落ち」となりました。そこでMaHaの言うその〈心〉の世界ですが、もっと詳しく知りたいとところです。そこで前回の発展として、その「落ち」をもらって僕なりに納得したことがあります。それは、僕が体験的に確かめてきている、「〈心〉は運動によってつくられる」という、いわば《〈心〉運動起源説》です。
〈心〉の発生源としての「運動」
そうだね。それは〈心〉という世界を説明する、確かな視点と言えるね。つまり、〈心〉とは動的な世界で、生来のものでも先験的なものでなく、ひとつひとつの体験に基づいて切り拓かれ、発見され、修得されてゆくものであることだね。間違いなく、自分で開拓するもの。
そこでMaHa、僕が重視することがあります。それは、運動した後のあの爽快感や充実感がもたらしてくれる、至上感についてです。僕は長年、運動に親しんできて、その至上感のいわばとりことなり、それを満喫する一方で、それが何なんだろうと、ずっと考えてきました。単なる気分上の思い込みなのか、それとも何か確かな根拠をもつものなのか。
それをこれまでに達した結論から言うと、近年の人間科学の成果として、その至上感が、運動、ことに繰り返される筋肉収縮が作り出す一種の精神作用物質の働きによるものだということが判明してきていることです。
そこで、その精神作用物質が起こすその至上感に期待し、のめり込む自分を、「麻薬」の「常習者」とまで呼んでいるほどです。
ともあれ、そうして、充実して解き放たれた精神状態へと到達させてくれる運動を、いまや毎日の「仕事」とさえ受け止めています。まあ「仕事」という呼び方は、通り一遍な言葉なんですが、それくらいに誰もの現実味を呼び起こすものとしてです。
そういう運動効果に、今や世界中の人たちが気付き、あらためて体験し始め、健康度を上げるためのトレンドとなってきているね。従来の趣味の域を越えられなかったスポーツ志向とは違って、いわゆるライフスタイルの必須要素に組み入れている。それも、病気予防といった受動的な観点からではなく、自分の身心の一体化した容量を拡大し、自分の創造性を芽生えさせるねらいをもって。まさに、《〈心〉運動起源説》は受け入れられているね。
相手と築く〈心〉の世界
MaHaにそう言ってもらうと心強いです。そこでですね、そうした観点で、〈心〉の世界の開拓をけっこう日常生活中でも試みてもいるんです。これも、広い意味での「運動」として。
ほぉー、それは大したものだね。いったいどういう試みだろう。
それは、身辺に見慣れた、誰にでもありふれた体験でもあると思うんですが、自分のいわゆる「ジェンダー役割」の見直し「運動」です。
おぉ、こいつは手ごわい問題だよ。いや、冷やかしではなく、どこのご夫婦もカップルもかかえている、それこそ決別の危険すら潜む、家庭や二人関係の心中に深く埋まっている巨大不発弾クラスの難題だ。それに挑んでいるということなのかね?
いやいや、そんな大それた意気込みがあったわけではないのですが、ただ、必要にかられて、主婦に代わって“主夫”を務める成り行きとなったのです。
どんな事情があったのかは聞かないけれど、それは言ってみれば、男と女の役割をひっくり返すということだ。それもあなたの年齢で。それで、どんな発見をしたのかな?
ジェンダーの役割分担って、一面、そうして社会の秩序が保たれてきたのでしょうが、反面、そうした伝統的に固定化されてきた枠をもって、人の個々の違いの無視、ことにその役割になじまない違いの抹殺であることですよね。そこで、経緯の詳細はともあれその結末を言えば、いったんそういう枠を白紙にもどし、その二人のそれぞれの得意、不得意を突き合わせて組み立て直せば、けっこう、無理や無駄が省け、逆に、その方がスムーズに効率的にもうまく回っていったということです。ただ、社会的には変わり者にならなきゃなりませんが、そういう結末には到達できました。
そして、ここが肝心なところだったのですが、その紆余曲折する経緯にあって、互いの信頼を維持すること、できること、これが、うまくゆくための決め手であり、また果実でもあったことです。つまりそこでは、揺るがぬ信頼が先にあったからなのか、結果としてその信頼が実ってきたのか、そのニワトリが先かタマゴが先かは、もう「神さえご存じない」人間わざで、そうして到達できた二人なりの相互の関係、それは、MaHaの言う〈心〉の世界と受け止めていいのじゃないかと思っているんです。
そうそうそれなんだよ。その千里の旅とも言っていい、並々ならぬエネルギーを要し、デリケートかつ深刻な曲折を乗り越えて行くその長い旅の道中、信頼を維持しえたとするなら、それがどうして〈心〉の世界じゃないと言えるだろう。つまり、とかく物欲が大手を振る世の中で、あまりに多くの、あまりな誤解へと導く枝葉の繁茂のために、そのある意味で実にシンプルな信頼の行為が、途中で萎え尽きてしまうのだよ。
そんな「千里の旅」なぞやってきたつもりはないんですが、けっこう回り道はしながら、なんとか、ここにまでにはこれています。
〈心〉という「もの/こと」
そこでなんだが、私が〈心〉と称する何かは、「もの」でもあり「思い」でもある両義的なもので、ちょうど、光が粒でも波でもあるような、そういう、どちらでもあってどちらだけでもない存在だね。そこで、〈心〉についての代名詞が必要な場合、ちょっと歯切れは悪いんだが、「もの/こと」という両義的な言葉を用いたいね。
そういう意味で、従来の「心理学」に関しては、それとは別の「〈心〉理学」との視点を持って再構築してゆく必要があるとにらんでいるんだ。そしてこの「〈心〉理学」とは、現存の「物理学」でも「心理学」でもなく、そこに代わる両義的新領域、「もの/こと」理学としての「〈心〉理学」なんだよ。
さらに、この「もの/こと」を今日の最先端の科学的見地である「量子」と捉えるとするならば、「量子理学」とさえ呼称できるだろう。ただし、〈心〉が「量子」と言い切れるのかどうか、つまり、「量子」とはまだまだ「物理学」の用語であって、現に「量子物理学」という分野も存在しており、私としては、それと〈心〉を同義的に扱うには無理があると考えているね。だからこその「〈心〉理学」だ。
ともあれ、私はそのように〈心〉を捉え、社会の通念的な言葉である「心」とは区別して〈心〉と、カギかっこ付きで、表現している。
ただ、〈心〉とは何かとの問いに答える場合、それを従来の用語の範囲で表し切れない。そこで、以下のように、いくつかの焦点をもつエピソードを挙げて、その輪郭を描くのも一法かなと思う。
ペットと〈心〉
そこでまず超日常的なエピソードを挙げてみよう。
たとえばペットを飼っている飼い主が、そのペットの振る舞いに「ほっこり」したものを感じると表現されることがよくあるだろう。その場合、そのペットが表す無垢な行い――計算高くなってしまった人間にはできない、いかにも「ほっこり」な様子――、そこになんとも言えない感動を見出す、その「ほっこり」もそうした「もの/こと」と言えることだね。
そこでだが、これは「人間とペットの混同だ」と誤解されやすい採り上げなのだけれど、自分が相手にしている人物に、それこそペットと同じく「ほっこり」させられる「もの/こと」を見出す時、そこに〈心〉が通い合っていると受け止められ、それが癒しとなったり、信頼の手掛かりとなったり、ゆくゆくは愛情を見出したりもするね。
つまり〈心〉とは、なんとなくではなく、一定のフォーカスをもって命ある存在を対象とした時、その結果に見出される「もの/こと」だ。それは、自動的な産物でも、天賦な産物でもない、きわめて単純明快な反応に発見する「もの/こと」ということ。すなわち、そうした一定のフォーカスとその反応という往復するやり取り関係があってのもので、そういう意味で、体験的なものである。
逆に、そうした動的反応としての〈心〉とは、言葉のあらゆる意味で、計算には乗せられない、ただ、フォーカスを表現するという相互関係の明瞭な産物だ。だから私は、そういう、フォーカスをもって行為を働くことを、実験、ことに〈自分実験〉と呼んでいる。つまり、経験とは、そうした〈自分実験〉の積み重ねのことで、それなりの年月のなす厚みを必要としている。
年金生活と〈心〉
そういう話ならMaHa、僕もこの〈心〉にまつわる〈自分実験〉をやってますよ、およばずながら。つまり、僕は年金生活者として、すでに、いわゆる金稼ぎの必要からは解放されていて、その金銭的足かせなしの自由を満喫して生活してきています。そしてそうした生活を続けてくる中で、上記のように、〈運動〉がもたらす、ただの健康維持にとどまらぬ、予想を越えた効果を味わってきています。そして前回の「日のいずる国」に述べられているように、その効果のもたらす人間のメンタル上の改善や向上の働きを、〈心〉の発生源と見出しているわけです。そしてこの脱マネー生活という意味では、今後到来すると期待される未来を、事実上、先取りしてるんじゃないかとも考えているところです。
そうですから、すでに手にしているその年金生活者としての特典を活用しないなんて余りにもったいない話であって、何の気兼ねも遠慮も抜きに、未来を先取りする方向に進んでゆくべきだと捉え、その〈心〉の領域に進んで踏み込んでゆきたいと思っていますね。
なるほど、年金生活が〈心〉の領域ということね。
そこで言うなら、この〈心〉を目指すとの戦略を、歴史的に遡って言うと、こうなるんじゃないかな。すなわち、人類は、長く、物質と言う自分の一部をなすものに関わり過ぎてきた。それが上述の物的必要だが、そうした〈心〉抜きの〈物体人〉としての産物を計量し支配するものが、マネー、お金、つまり、数値に変換された物の世界であった。したがって、そのように人間を〈物体人〉とする限り、それはビジネスライクに運べる世界の話であり、マネージングの対象となり、今日のグローバルビジネスを花咲かせている一方で、人と人との間の格差をますます拡大している。
トランプ2.0って、世界を完璧に〈物体人〉化することで、その目で見れば、〈心〉ありの世界って、無駄だらけに見えるんだろうね、MaHa。