MaHaと僕のシェアーライフ


イントロダクション   

いよいよ、「MaHa」のキャスティングがここに設定された。

ちなみに、僕は最近、もう完全にリタイア後の日々の習慣となった「運動」を、ことにある信念をこめて《仕事》と呼ぶようになった。そこでもし、「運動」に限らず、僕のこの生活のすべてをもまるごとその《仕事》と捉えたらどうなのか。そうした発想がきっかけとなって、この設定が生まれた。

同様に、これまで「MaHa」を、あくまでも創作上のキャスト、つまり架空のメタ存在として想定してきたのだが、もし、それを「運動」と同等な、リアル存在としたらどうなのか。

言うなれば、こうした「もし」とは、「MaHa」という役割も存在もこの《仕事》とし、そこでは「リアル」も「メタ」も区別なく、すべてが相互に融け合って働く、そういう「MaHa」の〈メタ×リアル〉ストーリーを、もはや描こうというより、実行しようというアイデアである。

  • ところで、この《仕事》について説明しておくのだが、私は自人生の体験において年を追うように、世間で言ういわゆる「仕事」とは、〈創造と強制〉――今風に言えば「ホワイト」と「ブラック」――という両面性を持つ、資本主義社会での収奪の隠れ蓑にさえなっている行為との確信を深めてきた。だからこそ、そうした両面性に否応なしにさらされる人々を生活者と呼び、自分もその一人としてきた。そして近年、なんとか燃え尽きることなく健康を維持してリタイアに達し、その両面的仕事から解放された日々を初体験する中で、思いもつかぬ貴重な発見をすることとなった。それは、そうした仕事への従事の中でも運動を習慣化してきたことが、その両面性から脱し本来の創造的仕事に乗り出せる必須要素であるということだった。そこでそうした本来の仕事を、その両面的な仕事とは区別して《》付きの《仕事》と表現し、まずそういう《仕事》観を確かめ、そしてそれを通じて、人間らしさのなんたるかを再認識する手掛かりにしたいと考えた。

そこでなのだが、僕はそういう〈メタ×リアル〉のキャスティングをこの設定上で実行しようというのであるから、それはもう、この世もあの世もごっちゃ混ぜである。そして、そう境界を股にかけ、生きながらにして越境するのも同然の世界である。ひょっとすると、これもいわゆる「終活」に当る行いなのかもしれぬ。

あるいは、そんな両界をまたぐ見地より逆算して現今を眺めれば、SNSやらAIやらの人間離れを売り物とする新技術の怒涛のごとき浸透により、もはや、人間らしい信義が形無しにされる時代、さらには、何が現実で何が仮想かその見分けすらおぼつかない時代へと向かっているとの感が深い。そんな寄る辺を欠くただキラキラさに目を奪われる時代にあって、それでも命をはぐくみ続ける生身な人間にとって、その命の働きの向かう先とはどこなのか。それを見出すことを《仕事》と任じ、僕にとってその成就は、「MaHa」と共の〈メタ×リアル〉ストーリーに取り組む以外にはありえないと信じるものである。たとえ「老害」呼ばわりされるようなことになろうとも。

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