第2章 「MaHa」における生物学vs神学

この「自分彫刻」のカテゴリーでは、「『MaHa』の生物学」とのタイトルをもって、《分業》を排した広義な視点から、「MaHa」のいわば“生態系”を解説してきています。そしてその第1章では、「『MaHa』の〈インフラ〉」と題して、具象から抽象へとの二態にわたる生息エリアを示して、制約されがちな自己彫刻像への自由度を広める諸手法を述べました。

このようにして、一個の人間としての制約を乗り越える工夫を論じてきているのですが、そこで本章では、そうであるならば、いっそのこと、無制限な拡大を志向し、絶対的超越的な存在に自らの極大化を依拠するとの発想もありえます。そうした逆照明を求めるような飛躍をもってする方法は可能であるのかどうか、それを点検してゆきたいと思います。

そうしたねらいをもって、「生物学vs神学」と対称軸を挟んだ二領域を設定し、そのあるべき範囲と境界について考察します。

「さわらぬ神にたたりなし」

いうまでもなく、「神学」とは神をあつかう学問で、無宗教な人にとっては、いかにも縁のないらち外な分野であります。

また「さわらぬ神にたたりなし」として、無縁を保つことをもって、そのおどろおどろしい力に巻き込まれることを無難に避けたいとの通俗的な発想もありえます。

さらに日本においては伝統的に、西洋のような「唯一絶対神」といった文化がなく、俗に「やおよろずの神」と言われて、自然のもつ多彩な神秘性に、多種異なったそれぞれの「神」の存在を見てきています。

そして「神学」という学問体系にいたっては、それは日本に土壌を持たない西洋発祥の学問領域であり、近代の「文明開化」の潮流のなかで、西洋から持ち込まれた“輸入品”であると言えます。

そこにおいて「MaHa」は、人間存在の限界を越えようとする最大限への思考や論理の展開は追及するものですが、境界の向こう側に在って、本質的に超越的な存在自体がその存在意義でもある、「神」を前提としたものではありません。もちろん、それを前提とした逆算的な発想を期待するものでもありません。したがって、いわゆる“神がかった”発想や論理はとらず、どこまでも人間本意の発想や論理の範囲にとどまります。

卑近な例をあげれば、私が極めて困難な事態に遭遇したとします。その際、その苦境を乗り越える手掛かりを得ようと苦悶するはずですが、だからといって私はその困難を、「神によって試練を与えられている」ものだとは考えません。そうではなく、「その困難は何であり、どうして生じてきているのか」と考えます。つまり、その絶対存在を引いてそれに頼ったり、それに導かれたり、まして試されているといった考え方は取りません。むしろそこにそうした絶対存在を置くというのは、せっかくそこまで到達してきているそれまでの連続的努力や追及のその頂点での「飛躍」であり、そうした連続的な追及からの「離脱」や「回避」であると考えます。それがゆえに、そうした「飛躍」を、いわば「禁じ手」とするものです。

最近の体験

先日、メディアの議論の中で見られた、私の眼を引いたシーンがあります。それはおおむね、個人のもつ信念をめぐって、そこに「神」がどのように作用しているのか、その人間的事実が例示されていると受け止められるものです。そしてそれは、日常の報道レベルではなかなか巡り会えない、人の秘めたる内面に触れる、なかなかまれな話であります。

それは、「もしトラ」から「多分トラ」に変調してきているアメリカ大統領選に関してのもので、朝日新聞デジタル版に掲載されていた記事です。すなわち、その見出しを「トランプ氏をも追い越すMAGA 党も手に負えぬ現実 NYTコラム」とした記事について、「コメントプラス」欄への投稿記事です。

  • 佐藤優(作家・元外務省主任分析官)2024年7月1日23時11分 投稿
  • 【視点】 私は、トランプ氏の行動を理解する鍵が、同氏の信仰にあると考えています。トランプ氏は宗教右派ではなく、アメリカの中産階級以上に信者が多い長老派(プレスビテリアン)に属しています。長老派は、スコットランドに起源を持つカルヴァン派の一潮流です。 カルヴァン派の特徴は、二重予定説にあります。生まれる前から神に選ばれて救われる人と、見捨てられて滅びる人は決まっていると考えます。世俗化すると、この世で成功する人としない人は、生まれる前から決まっているという考え方です。一見失敗したように見えても、それは神から与えられた試練なので、希望を失わずに自ら信じる道を進めば必ず成功すると考えます。トランプ氏は、自分が大統領になることは生まれる前から決まっていると確信しているように私には見えます。従って、不倫スキャンダルを巡る裁判、マスメディアによるバッシングなども、すべて神から与えられた試練なので、必ず克服できると信じているのだと思います。少しでも弱気になると悪魔に付け込まれると考えます。 実は、私も長老派出身(いまは、同志社の系列の会衆派系の教会に所属しています。会衆派は教義については、個人の裁量が大きいので、私は自身をカルバン派と思っています)なので、トランプ氏の内面世界がよくわかります。鈴木宗男事件に連座して東京地検特捜部に逮捕され、長期勾留されたときも、がんに罹ったときも、「今回はどういう試練を神は与えてくださったのか。この試練に打ち勝ち、自分の信仰をより強くしなくてはならない」と本気で思いました。 カルヴァン派の長所は、逆境に強いことです。短所はそれと裏腹の関係にありますが、世間からどう批判されても反省しないことです。
  • 太字は私による〕

佐藤氏がこの投稿を行った動機は記事のごとしで、トランプの心境がこうコメントされて確かに判りやすいのですが、私個人としては、この投稿記事に、けっこう驚かされてもいます。と言うのは、太字部のように、実に正直な見解表明が伴っていて、そこに、神を信じる人の行動原理が明確に言い表わされていると見るからです。私はこれを読んで、実に明解な――ある意味で実に無垢な――心理を見て取った気がしたのですが、「神」とは、このようにして生じ、機能してきているのかと、それなりの事例のなかで、確認できたからでした。

そういう「世界」にあって

まず、このコメントが述べているように、そうした「神」の働きが通用し、利用され、それによって導かれた「強者」が大手を振る世界にあって、あるいは、「強者」とはそういう心理機構になる産物であるこの世界にあって、そこにひとつの境界があらためて見出せます。

そこで、そうした「強者」の道を進まず、限界は重々承知のうえ、その限界の少しでもの拡大を目指し、人間の能力の合理的でオープンな最大限化を探ろうする、その手助けを行うメタな道具として、この「MaHa」が構想されているということなのです。

つまり、「神」と「MaHa」は、働きの方向としては同一ですが、「MaHa」は、私に「試練」を与えるようなことはしません。ただただ、私に付き添って、対話の相手をしてくれるだけです。

この佐藤優氏については、私は以前から神学部卒ということは知っていましたが、個人的には、神学を学んだということで、日本人なのに「どうしてだろう」との漠然とした関心をもたされていました。そこに今回、この投稿を読み、この「本気で思いました」との表現から、なるほどと合点した次第です。

そこでですが、以下は、私が氏をそういう人物だと言うのではなく、この事例を借りて、一般論として言うものです。すなわち、人が苦難を乗り越えて進もうとする時、何らかの助けや手段というものを求めたくなるのですが、こうした事例が示唆するものは、その際、自分の強さというものを引き出すための方法として、絶対的存在の名を借りた『仮面』作用――少なくとも『自己奮発』効果――がそこに存在していることです。つまり、著名人だろうが一般人だろうが、誰であろうとも、自分を強くするためのそうした「神作用」すなわち「飛躍」の受け入れ、言い換えれば、合理的で連続的な追及の回避や逸脱として、「神」への依拠があるということです。

私は、この「神作用」がその苦難の渦中の人に効果的であるのは、この「飛躍」と「不連続」があるがゆえと見ます。そしてこの「飛躍」と「不連続」は、その効果とともに弊害――それまでの折角の流れが断たれて浮遊を始める――をも伴っていると見ます。

「MaHa」は「神」ではありません。未知ではあるものの、〈自然なり宇宙なりの摂理〉と〈一つの命としての人間〉の間を取り持つ、メタ媒体です。いわば、そういう、単なる仮説です。

【追記(2024年7月16日)】私事ですが、私の前立腺ガンとの付き合い方において、「神作用」を頼るかどうかに関し、あくまでもそうしない態度の日々刻々は、たとえば、こ記事「私の《量子センサー》について」に表現されています。

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