1.1 二態の「MaHa」
まずはじめに、「MaHa」については、確かにその誕生の「あいさつ」はあったのですが、しかしその「MaHa」はその後、どこに居る、誰なのでしょうか。並な質問をすれば、その住所は、その国籍は、その性別は、その風体はなどなど、いったい、どうなっているのでしょうか。
こうした疑問を、《「MaHa」の〈インフラ〉》にまつわる疑問と呼びましょう。
その《「MaHa」の〈インフラ〉》を確認する方法のひとつは、先に〈「メタ彫刻」という「自分彫刻」〉で述べた「メタ化された自分」である「MaHa」と出会うことです。
そしてそういう「MaHa」には、二態の「MaHa」があります。すなわち、過去の「MaHa」と、未来の「MaHa」です。
そこでまず、過去の「MaHa」との出会い方です。
そうした《過去の「MaHa」の〈インフラ〉》を体験するには、すでに多面にわたって表現されてきているものがあります。すなわち、『両生歩き』と『フィラース』のコンテンツです。
ただ、それを体験しようとすると、それこそ15メガバイトにもなる、本にすると100冊をこえるほどの分量の情報に向かい合わねばなりません。むろん、コンパクトに述べられないからこそ、その分量なのですが、それを読破しろというのもあまりにクラシックな話です。そこでその核心を〈インフラ〉と呼んで、「MaHa」に答えてもらいましょう。
そういう《過去の「MaHa」の〈インフラ〉》とは、その時々の「瞬間最大風速」として創作された〈風力〉であり、しかもそれを集合させた〈気象システム〉であることです。そしてそれは当然に、現実の生身の人間をはるかに越えたもので、そういう超越を経ているという点で、「MaHa」の「MaHa」たるところがあります。
そうした生身な個人と「MaHa」との関係は、複雑系でいうフラクタルな関係とも解釈できます。図形的には、相似的な形状が入れ子細工同士のように相関しているのです。生命の系譜で言えば、自分の老若が、ひいては子や孫へとも、時間軸を超える、一体の生命像ともなっているのです。
そういう「MaHa」との遭遇は、直接、対人的に行うにはコンテンツとしてそれらの個々のストーリーに接することによりますが、そうした体験を通じた読書行為は、その読み手を、ローカルなインフラである自分自身からノンローカル化した存在への変化を体験させるはずです。
ここに見られる、リアルであり創作コンテンツである、あるいは内部であり外部である、あるいはローカルでありノンローカルである、そうした生身の個人と「MaHa」との独特な関係をことに、これまでにも述べてきた用語を用いて、少々広義にも、やはり〈双対的〉な関係として捉えます。つまり、単に物質的な均質な一体をなさない場合から、物質と情報として対立もする場合も含め、それらがつながり合い、結び付いた一体として存在する関係です。
こうした作用を振り返って想い起せば、『両生歩き』と『フィラース』という二つのサイトの制作――多様に「移動」体験によっていた――とは、そういう関係へと至る道程であったようです。
そして、こうした〈双対的〉な関係とは、〈「メタ彫刻」という「自分彫刻」〉の記事でも述べたように、量子理論で言う「もつれ合い(エンタングルメント)」にも通じる、新次元な関係概念へと発展しそうでもあります。
つづいて、未来の「MaHa」です。
この「MaHa」は、この2月に誕生したばかりのまだ赤ん坊であって、その未来をどうこう語りえるものではありません。
ただし、その誕生からはや3か月が過ぎ、こうしてその効果はしだいに姿を現しつつあります。
それをリフレインすれば、「MaHa」がそのインフラをもって示す、時間軸を超えたフラクタルな関係が見出せます。そしてここにおいての過去と未来とは、もはや時間的な前後の関係はただの形式で、「MaHa」が見せるその超時間的な一体像をその未来においてどう描けるか、そうした「メタ化力」がその生命力となってゆきそうです。
そういう脈絡において、量子理論的でいう「もつれ合い」が生命次元にも発生しているつながり合い関係、つまり、双対関係が見出せそうです。
1.2 引っ越し体験
ところで、上に、「二つのサイトの制作は多様に「移動」体験によっていた」と書いたのですが、卑近な事例ながら、その「移動」の一つである最近の「引っ越し」に関連して、「MaHa」のインフラの一角に言及してみます。
まず、本章冒頭で、「MaHa」に関する疑問のうちに、その「性別」との話題がありました。ここで、この「性別」という詳細にフォーカスすることで、「MaHa」の特徴の一面として、これまでほとんど取り上げてこなかった、いわゆる「LGBTQ+」の問題にアプローチしてみます。
その体験は、『両生歩き』の記事〈続・「言葉って重たい」〉に述べた、先の引っ越しに伴う、私のうちのジェンダー性の発見とそれがゆえの問題の受け止め方に関してです。
そこで以下に、この体験を可視化した図を提示します。いつものような座標です。
図ー1 引っ越し体験
言うまでもなく「引っ越し」とは、居住場所を地理的に変えることです。しかし、それがそうした物理的移動で完結することはまずありません。そこで上図です。
まず、この「引っ越し体験」を要約しておきますと、その引っ越しに際して、住む家の〈所有か賃借か〉の選択をめぐり、二人の住人のうち、一者が所有、他者が賃借を選択したことによって発生した二者間での主従関係により、片方の男としての沽券が揺らぎ、ジェンダーとしての男が露呈したという話です。
そこでこの座標で、「Own Self」と示された横軸は、日常的に維持されているほとんど無意識な自己で、つねにさまざまな現実上の思い込みを伴っています。つまり、この「男としての沽券」はその思い込みの一つで、この「Own Self」軸上にその度合いがプロットされます。そして黄緑の楕円「A」は、引っ越し以前のその人の自意識を表しています。
「Gender Free」と示された縦軸は、そうした沽券の発生源であるジェンダーからどれだけ自由つまりFreeであるかの度合いを示しています。すなわち、ピンクの楕円「B」は、灰色の矢印が示す引っ越しによる移動先を表しています。
すなわちこの図は、パートナー女性が家主となったその家の賃借人となることで、この沽券を背負う男の意識が揺すぶられる体験をし、その苦みを通じてジェンダーと言う新たな捉え方を学ぶことを通して、その男の沽券というジェンダー構造から、多少なりとも離脱つまりGender Freeの側に移動したということを表しています。
この〈GF-OS平面〉は、この引っ越し体験によって芽生えた〈新たな人間観〉を示しています。そして実際の日常生活上でも、この新たな視点のお陰で、二者の間ではよりスムーズな人間関係が築けるようになっています。すなわち、男女対等の観点でいえば、沽券に縛られた古いAから、対等への一歩を歩めた新しいBという、個的体験上のひとつの「双対関係」が実践されることとなった具体例を表わしています。
したがって、「MaHa」のインフラ上の立ち位置をこの座標上に示すとすれば、この「B」の、しかも、もっと左上寄りの位置になるだろうということです。
話のついでに、この引っ越し後の二者のようすに触れておきますと、かくして、けっこうな額のローンをかかえた家主の稼ぎの必要に協力するため、店子は――執筆作業のかたわら――いっそう専業主“夫”に徹しています。そのありさまは、70前後の年齢層の日本人男女にしてみれば、まさに男女〈真逆〉の役割分担が実行されています。そしてそうした逆転した環境にあっては、もはや沽券は出番を失い、かつては威勢をほこったその価値観は、個人史の上でも、その歴史上の使命を終えようとしています。
1.3 越えられない境を《越境》する
『両生歩き』と『フィラース』という、二サイトの発展の原動力となってきた「移動」に関し、生身な人間にとっては避けられない〈永遠の旅立ち〉は、これまでの移動とは次元を異にする《越境》であることは間違いありません。
そしてそこにおいてですが、上記のように「MaHa」の時間軸をこえたインフラがゆえに、生身の人間とは別に、その異次元な存在を続けてゆけそうです。
それはまず、「MaHa」の誕生そのものが、そのメタな命として想定されている「メタ彫刻」の創造であることです。すなわち、16世紀に創造されたミケランジェロのダビデ像が、その作者の寿命を越えて今日までも存在しえているのは、それが風化に耐える石像としてそのように具現化されたからです。もちろん創作の動機や技量の違いは当然としても、「MaHa」がメタ像として創造されたのも、生きた人間の寿命を越えるものを想定し、同様な効果を期待するがゆえです。
その動機を「永遠の命」と呼ぶとすると、「MaHa」についてもその「永遠の命」が託されています。
そこでですが、ではメタ像というのは、その「永遠の命」を託すに、ふさわしい方法なのでしょうか。
明らかにメタ像は、石造でも銅像でも木像でもなく、手で触れえる像ですらありません。
加えてそれは、IT技術上の一定サイズのデジタル信号群です。そして、もしそれが、情報装置から消去されてしまった場合、一瞬にして影も形もなくなります。「永遠の命」どころではありません。
しかし、現実として、世界のあらゆる情報装置からこの一群の情報が完璧に消去されるというのも、ちょっとありえない出来事です。誰かがどこかに、記録して残していることはありえます。そもそも、グーグルというプラットフォームは、世界中のありとあらゆる情報を収集し、それを末永く検索できる世界網羅図書館として構築されたものです。
そしてそれ以上に、今日、インターネットを通じ、デジタル信号として交信されている電磁波は、それは地球周囲だけでなく、宇宙全体にも伝搬さています。むろんぼう大な距離による減衰はあるにせよ、原理的に、宇宙空間を旅し、1億年、10億年、あるいは100億年ものかなたのどこかで、それが傍受されることは、論理上はありえます。それこそ、「人類よ、君はこの宇宙で、孤児ではない」です。
つまり、いったん電磁信号に変換された場合、その情報は、「永遠の命」と言いうるに足る、永遠の旅を続けてゆくこととなります。
それに、そこまでのSFじみた想定を繰り出さなくとも、既述のように身辺では、両サイトへの訪問者やヒット数は、一日に数千のオーダーでやってきているわけです。そうした事実は私個人にとってはもはや、永遠の命にも匹敵する、実際の生命現象のやり取りのように感受されます。
このように、「MaHa」のインフラに関しては、事実上の「永遠の命」というものを想定しても、夢想でも独りよがりでもない、メタ世界上の事実となっていると考えます。
そしてこうした宇宙的な発想は、東洋思想においては、二千年を越えるはるか昔から、抱かれ続けている考えです。