「MaHa」の研究

第1章 「MaHa」の解析

座標による可視化

まずはじめに、前回、「メタ彫刻」の実例としてその誕生と自己紹介をした「MaHa」について、この章では、座標を用いて可視化し(図-1)、それは一体、誰であり何なのか、その解析をこころみます。

この三次元座標は、見かけは数学的な三軸座標です。しかし、各座標軸が表示することは、単に数的な量ではなく、意味や概念としての非数字的“ボリューム”です。そしてこのようなボリュームを《メタ量》と呼びます。

まずこの《メタ量》を、ごく平易に、日常感覚に置き換えてみますと、それは、いわゆる「感動」や「納得」のことであると言えます。映画をみたり、音楽を聴いたり、誰かの行動に接したり、そして本を読んだりした時に得た、その「感動」や「納得」のことです。

まずはそういう《メタ量》ではあるのですが、それには、「哲学的」な意味が託されています。それもこの「哲学的」とは、一般的な意味以上に、特に量子理論において使われる意味合いを持っています。それは、従来の常識では考えられない新たな捉え方や考え方と言うことで、そこをくみ取るには、なかなか柔軟な発想や直観を要します。ことにそこに「双対性」という用語を通して臨む時、そこには東洋的な思想との絡みが重要となります。ただし、この点については後に詳述します。

従って、この《メタ量》には、いまのところ、人間がすでに持っている測定単位はなく、その意味で、測定によって同定することはできません。言い換えれば、測定して単位を与えてしまえば、その段階でもはやその本質が見落とされ、別物と化します(例えば、「百キロメーターの感動」などいったように)。そういう理由で、今日、リアル事象をデジタル化した一般的に「メタ」と呼ばれているものとも、もちろん、異なります。

これは余談ですが、本サイト「理論人間生命学」で「理論へのひながた」の〈「理論化」3次元モデル〉において描かれている三次元モデルは、この《メタ量》という尺度がまだ考慮されておらず、従来の数学的尺度でのモデルとなっています。本考察への経過をたどるという意味では、興味深い段階がそこにみられます。

図-1が示すように、そのような「哲学的」な《メタ量》空間に三次元的に存在しているピンクの長方体像が「MaHa」です。

つまり、「MaHa」とは、三つの性質の異なった《メタ量》上の統合空間に生息している生き物です。単に、地球上や日本列島上に生息している「人類」とか「日本人」と呼ばれる生き物ではありません。

したがって、命をもつ生き物ではありますが、地球とか日本列島とかという物象に依存せず、文字通りの「メタ」存在です。(と言っても、たとえば、地球がメタ存在ではないと言っているのではありません。ただ今日の人間の常識において、地球のそうしたメタな存在は実に希薄にしか認識されていないという意味です)。

              図-1 《メタ量》座標上の「MaHa」

三次元《メタ量》空間とは

さらに「MaHa」の解析を進めてゆくと、まず、「MaHa」が立っている「赤い平面」についてです。

これは、「身体性」という《メタ量》軸と、「思想性」という《メタ量》軸の二軸からなる平面です。

そしてこの「身体性」軸の内容をなすものは、サイト『両生歩き』に掲示されている多数のコンテンツの総体によって提供される《メタ量》で、黄緑色部で示されています。

この《メタ量》は、「身体性」と表示されているように、地球や日本列島、あるいは、私たちの身体など、物的な基盤に依存しているものです。その意味で、まだまだ、既存の単位量に近似させうる次元です。たとえば、「肥満」と呼ばれる《メタ量》――当サイトHPヘッドの「ダビデ像今昔」と題した対の写真が描き出している――に関しては、BMI(ボディーマス指数)=体重/身長2[kg/m2] といったものがあります。

ただしこの種の《メタ量》は、サイト名『両生歩き』の「両生」という語が示しているように、ただ、地理的あるいは通念的なひとつの場に縛られたものではない、少なくとも、複数の違った場を股に掛けたものであることです。そうした両義的ときには多義的なものとして、もはや、既存の単位量を逸脱し始めているものです。

ここにはたとえば、一人の人間が、国境、すなわち、地理、文化、歴史、政治的な境界を越えて、違った世界を体験して行ったという〈物的移動体験〉にもとづく、視野や価値観が拡大する「感動」や「納得」、すなわち、《メタ量》が託されています。

つぎに、「思想性」軸の内容です。これは、サイト『フィラース』に掲示のコンテンツの総体によって提供される《メタ量》で、空色部で示されています。

これは、思考活動の産物で、身体や物的な条件に依存せず、脱現実、あるいは、抽象性の世界です。この意味で、より純粋な《メタ量》です。そしてもうここに至れば、単位ある指数すら不可能です。それこそ、「人間の命」を描き出すために「理論人間生命学」といった(原則から第6部までにわたる)相当の量のコンテンツを必要としているわけです。

ただし、その発展は、上記の「身体的」な〈物的移動体験〉を下地にしており、すでにここにおいても、そうしたインフラあっての産物という相互関係、あるいは両属性に基づいています。

そして、この思想性の《メタ量》は、この『フィラース』のホームページに掲げられているいくつかのカテゴリーを――メニュー表示上では、右から左へと――たどってきているもので、最終的にはこの「自分彫刻」という構想に達しています。

ここで、一見は強引に、そして実は本質的に、こうした「身体性」と「思想性」という二つの《メタ量》と私たちの実際の人生体験とを関連付けるのですが、こうした二種の《メタ量》のもつ「両義性」あるいは「両属性」がゆえに、一般に私たちは、人生初期の生硬な考え上では、「現実と理想」とか、「食ってゆくための仕方なさ」とかと、広く「板挟み」として体験され始めるわけです。今日よく使われる「生きづらさ」といった言葉も、こうした捉え方に属するものと言えましょう。

人の生存に付き物のこうした「ジレンマ感覚」は、このように実は本質的なもので、さまざまな曲折する体験をへて、やがて、その〈二項対立〉感覚を克服するある種の精神的な構えや高みを生み出してゆく足掛かりとなります。むろんそれは、人に応じて様々なのですが、たとえば、現実主義と理想主義と呼ばれる対照的な人生スタイルをその両端と見れば、その間に様々なバラエティーを含んだ「生き方スペクトル」をなすこととなります。

つまり、図-1で「MaHa」が立脚している「赤い平面」とは、こうした「生き方スペクトル」が織りなすタペストリーとしての人間世界です。それはこの座標では平面として表示されていますが、「身体性」と「思想性」という二種《メタ量》による平面であって、実際に意味するのは、この世界の時間と三次元空間のなす「時空」空間を構成するものです。あるいは、地球上の現世界と言ってもよいでしょう。

そこで次は、第三の「双対性」軸です。まずこの「双対性」という用語は、その振り出しにおいては、一対の異なった要素からなる二項構成を発端とするものです。あるいは、「矛盾」の原点と言ってもよいでしょう。そしてこの一見、相対立するような二項について、それらの「意味や概念」が統合されたものと理解される、上図では藤色部で示された、一種の思念的に拡大され、二項を包括する知的「ボリューム」となった《メタ量》を意味します。そしてここにまで来ると、もう、文章をなしたコンテンツをもってしても、容易には描き難い高いイメージの世界に至ります。

ここでコメントを入れておくと、ことに過去一世紀あまりで量子理論に生じてきた経緯があります。それは、同理論が提起し、そしてそれが繰り返しの実験によって実証されてきた、「もつれ」とか「エンタングルメント」と呼ばれる現象の実在に関わります。そして、そうした、従来の科学では捉え切れない、次第しだいに明らかになってきた不可解な現象を理解するために考案された、とくに「哲学的」と表現される新規な考え方が生まれてきます。実は、上述の《メタ量》という考えは、こうした量子理論の発達の経緯からも啓発をえて到達されてきているものです。

また、これは古典的哲学に属する用語ですが、いわゆる弁証法による「正、反、合」という三段階の発展プロセスにも、思考形式的にはこの《メタ量》発想に相当しているものと言えましょう。

さらに、上記のように、再び私たちの人生感覚と照らし合わせてみると、この《メタ量》への到達とか「双対性」の認識とかは、そこで私たちが日常的に体験する「板挟み」感あるいは「矛盾」認識という二者相対立した認識を統合克服する過程に主要に裏打ちされるもので、現実の人間社会での在り方そのものに発端を置くものであることです。その意味で、そうした条件や過程は世界共通のものです。それを、ことにその「矛盾」認識に関して、東洋的アプローチを背景に、日本の西田哲学が提起している結論が「絶対矛盾的自己同一」という、いかにも難解な概念です。すなわちこの用語は、《メタ量》という発想と同根かつ共通する到達点を持つものと言えます。

こうした発展のそれぞれの経緯に関しては、兄弟サイト『両生歩き』の記事〈「局地」的で「非局地」的な日本;その「絶対矛盾的自己同一」を〉、ならびに、本サイトの〈人生はメタ旅に向かう(7)〉などにおいて、詳しく論じられています。また、人生に伴う病苦や死といった、一般に宗教が扱う領域についても、従来、「悟り」という言葉に凝縮されてきた私たちの心神の究極的な働きについては、〈病苦と科学と宗教と〉が論じています。

そしてこれらを総じて、従来の科学が対象外としてきた領域を含めた学として、本サイトでは〈非科学-科学〉を探究してきています。

以上を包括して言えば、「双対性」という概念と《メタ量》という用語が織りなす、《メタ総量》とも呼べるものの存在です。それはまた、例えば従来の科学のような、明晰ながらも限界をもつその境界を越えてゆく、「ホーリスティック」とも呼ばれて、ブレークスルーにもなりうるものです。そしてさらに、これを自分事として言い換えれば、自己体験として、二項が対立的、あるいは矛盾して存在するかに見える時、それはその統合を示唆し、その統合に自ら自己同一してゆく――自分をそう磨き上げてゆく――可能性が潜んでいると捉えるチャンスであるということです。

このように「双対性」軸は、「身体性」軸と「思想性」軸を双対的に捉えた「赤い平面」を、さらに双対化させる次元です。そしてこうした二重の双対化を経て、これらの三軸がなす、まだまだ未知空間に存在する生命が、「MaHa」であると言うことです。

それは「神」的か

以上のように、上の図-1が表すものは、数理的な立体構造ではなく、三種の《メタ量》からなる三次元の《メタ総量》世界です。もちろんこれは、もはや目で見、手で触れて確認できる物としての世界ではなく、その言葉通り、「メタ」存在であり、そこに生きる存在が「メタ彫刻」であり、「MaHa」です。

そして、この三次元《メタ総量》からなる立体構造とは、もはや、私たちが従来理解してきたこの地球上の常識的世界を超えた世界の存在であり、その意味で、脱地球的、宇宙的なものです。

さてそこで、それを「神」とするのかどうかです。

それは確かに、この地球上の常識的世界を逸脱した存在ということでは、先の「病苦と科学と宗教と」において言及されたように、宗教が前提とする「神」の存在を語りうるかの領域に近づいています。しかし、それでも、(同リンク記事の中で)生命科学者の柳澤桂子博士は、〈「神」を見ますが、私は、それをいわゆる一神教の神ではなく、広大な宇宙だ思っております〉と述べています。

私も、博士とは同一の見解であり、そこを足場として〈非科学-科学〉の領域を追究しています。

ただ想うのは、「神」とは、これまでに人間が考案した至極の両義語で、良くは最大善の意、悪くは最大の偽善・欺瞞の語、ということです。

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