「非科学-科学」はむろん私の試みた造語であるのですが、その考えが表す方向には、良く見渡してみると、すでに、ことに従来科学の内側から、その壁を崩そうとの同種の動きがあることに気付かされます。
そうした分野が「複雑系」と呼ばれる新分野で、言うなれば、〈現行科学の辺縁な領域を科学的に追究〉している分野です。
そうした「複雑系」について、その先鋭な研究者である金子邦彦は、自エッセイ集の中で、以下のように述べています。
90年代半ばになって、複雑系という言葉をよく耳にするようになった。十年以上前から複雑系という新しい方向を目指そうとして同年代の人たちと活動を続けていた者の一人としては、もしその主張が真摯(しんし)に受け止められてきたのであれば、これほど喜ばしいことはない。/こうした活動では、少なくとも従来の科学の単純さへの還元主義的な点の何が問題か、なぜ、そしていかにそれを乗り越えていくかが真剣に議論されてきた。むろん、このことは簡単ではなく、また場合によっては、伝統的科学的手法と対峙(たいじ)しなければならない危険をはらんでいたので、様々な批判も受けてきたし、それにもかかわらず進まなけれならないという内的衝動と大きな覚悟のもとで行われてきたことであった。
『カオスの紡ぐ夢の中で』金子邦彦著(ハヤカワ文庫ノンフィクション)p.56-7
このように、「非科学-科学」と「複雑系」は、その発想の起点には同質のものがあるのですが、その探究の方法において、決定的と言ってもよい違いがあります。同書は、その方法についての「うまい方法」の有無について、以下のように述べています。
実際、あるデータがデタラメであるかという問いは、数学的な意味で決定不可能になってしまうのである。これは予想されることだ。絶対に規則がないと言いきるのは、無限の知性を持った仮想的存在でも考えない限り無理に決まっているからだ。/そこで立場は二つに分かれる。/そういう仮想的な存在を背後に感じつつ、数理的な定式化を行い、そのあとでその影として現実の系についても何かを言おうとする立場。もう一つは、そのような無限の知性はないのだから、むしろ有限の知性を持った主体が規則を考え出していく過程を念頭において複雑さを理解しようという立場。/僕自身は現実のドロドロした世界に足を踏み入れた複雑さを理解したいので、後者の見方を真剣に考えたいと思っている。
同 p.52-3
私と著者の金子は、この二つの立場のうち、共に後者に立とうとしている点では同じなのですが、そこで同書はさらにこう述べています。
これ〔後者の立場をとること〕はなかなかつらい。というのは、いったい誰にとっての規則なのかを問題にしなければならず必然的に「主観性」を相手にしなければならくなってしまうからだ。そうなってしまうと、もはやこの場合、この人は複雑だけど、別のケースでは複雑ではないという個別結果集のようになって、科学にはならなくなってしまうからだ。
同 p.53
ここに、金子が「科学にはならなくなってしまう」主観性を、どう捉えるのかの問題が分岐点となっていることがはっきりします。
「非科学-科学」の場合、誰も自分が生きている人間を止められないという実存の立場――ことに「生活者」というキレイゴト抜きの切羽詰まった立場――を取り、「主観性」を相手にするがゆえに、それを「非科学」との接頭語を用いて「非科学-科学」と称しています。ここに科学の内側か外側かという違いが明瞭となります。
すなわち、これは、その「ドロドロした世界」との関わりの筆頭の違いとして、卑近な表現ですが、片や研究者として、その関心と研究自体が「飯のタネ」となる科学の内側にある人と、他方、そうした関心と研究なぞに傾倒していれば「食いっぱぐれ」てしまう科学の外側にある生活人との違いがあります。
このように、「非科学-科学」と「複雑系」は、その発想の起点には同質のものがありながら、「主観性」を相手にするか否かをめぐって、決定的な違いがあります。
そして、すでに述べてきたように、その――「主観性」を扱う――違いを表す方法として、自分実験――ひいては「自分彫刻」――と伝統的東洋思想の時間的厚みに焦点を当ててきているわけです。
ただ、「複雑系」は、従来の科学の中でも、その辺縁部を開拓しようとしている意味で、科学の中ではもっとも近いの一種の同胞であるとの視点は持てるかと思います。