二つの「ダビデ」像

本カテゴリーに掲げられている《自分彫刻》とは、文言上からは、「自分が彫刻」とも「自分に彫刻」とも取れ、この彫刻という働きをめぐって、「自分」は、主なのか客なのか、いずれとも解釈できます。

その真意は「はじめに;〈非科学-科学〉へ向けて 」で述べたように、「自己創出(オートポイエーシス)」的な「芸術制作活動」なのですが、その含みを説明するにあたって、まず以下に、二つの彫刻像(正確にはその写真映像)をあげてみます。

左は、ミケランジェロの「ダビデ像」、右は、以前に翻訳して『両生歩き』に連載したブラッド・オルセン著「エソテリック三部作」から引用した、現代人を皮肉って映像加工された「パロディー・ダビデ像」です。

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こうして並置された二つの映像は、じつにみごとな、少なくとも視覚的な、美醜を物語っています。つまり一見上は、よくできたパロディーなのですが、上述の「主客」の交錯に踏み込むと、それだけではないことが判ります。

まず、「自分が彫刻」と解釈すると、彫刻する主(彫刻家)として私の技量なぞまったく歯牙にもかからないものとは言え、そこに言う「彫刻」とはむしろ、もっと象徴的な意味で、人生を生きて行く上での――生活してゆく上でとも言っていい――工夫や力量において、こうした明らかな「美醜」をなすものがあるのではないかとの問いです。

つぎに、「自分に彫刻」と解釈すると、対象とされ、刻み込まれて完成にいたる彫刻としての自分像とは、はたして、この二像のどちらの姿なのか、しかもそれが目指された目標として、そうした「美醜」という問いです。

主客あわせて言い換えれば、「自分にまつわるそうした美醜」。

このように対比された「美醜」イメージ自体はパロディー風としても、無数の違いをなして形成されてゆく誰もの実人生において、そこに展開される《自分彫刻》には、こうした問いが導き出す、それこそ、先に述べた「頂上なき登山」があり、「海図なき航海」があるということです。

ここに《彫刻》と私が呼ぶ、そのような興味深い働きが可能となっています。

   

「発達障害」」という考え方

最近、とみに「発達障害」という言葉を聞くことが増えてきています。ことに子育てをめぐってその機会が多いのですが、もし自分に子供があって、その子についてこうした「発達障害」という言葉が使われているとするなら、なんとも暗澹たる気持ちにさせられるだろうと想像しています。

ついでに触れておきますと、別稿で述べた、前立腺ガンと言う「ドラ息子」は、そこまでに強烈な「発達障害」を持った「わが子」であったということなのでしょうか。そいつを切り捨てず、共存したまま、果たしてウィンウィン関係を築けるのか否か。同じではないでしょうが、同種の問題であるように思われます。

一方、大人にとって「生活習慣病」という言葉があります。それは、生活習慣を原因とする高血圧、脳や心臓での血管障害、糖尿病、肥満などですが、この言葉を「生活習慣‘障害’」と言い換えてみます。

私は、子供にとっての「発達障害」とは、もうすでに、子供のころに発症している「生活習慣障害」と見れるのではないかと思っています。

もちろん、子供はまだ子供ですから、まだ、「生活習慣障害」を発するまでに足る、十分長い不健康な生活習慣は持っていません。しかしそれでも、それまでの育ってきた周囲の環境において、栄養、親、家族、友達、学校、社会などなど、捉えどころのない、さまざまな要因において、不健康な環境にさらされてきたがゆえの「子供生活習慣障害」として、その「発達障害」が現れてきているのだと捉えます。

すなわち、「生活習慣障害」を、大人になるまでの間の〈不健康な生活習慣〉の身体的産物だとするなら、「発達障害」はその子供版で、それが身体上にではなく、心神上に現れたものです。

それは言い換えれば、子供が育っている環境が、どれほどに〈不健康な生活習慣〉に取り囲まれているのか、それを表しているのが「発達障害」であり、さらには、自閉症であり、アスベルガー症であり、閉じこもりである、と考えます。

さらに社会全体で言えば、大人も子供も、誰一人として逃れることなく、蔓延する〈不健康な生活習慣〉にさらされ、否応なく親しまされている、と考えます。

つまり、「発達障害」も「生活習慣病」も、同根ということです。

「貯金」と「貯筋」

「貯金」とは、もちろんお金を貯蓄することですが、それに並べて、私は、「貯筋」という言葉を思い浮かべます。けっして駄洒落ではありません。

そして、この「貯金」の定義に沿って言えば、「貯筋」とはもちろん、筋肉を貯蓄することです。

そこでこの「筋肉を貯蓄する」ことなのですが、ちょっと前までは、筋肉とは、使い、鍛えるものとの考えで扱われるのが常でした。つまりその筋肉とは、その主によって支配される被造物でした。いうなれば、そのように扱われる奴隷同様の存在でした。

そういう筋肉が、近年の医学やスポーツ医学での研究の結果、まるで天地がひっくり返るような認識へと変わってきています。まさに革命的とも言えます。

つまり、「筋肉内に脳がある」との表現も可能な発見です。

と言うのは、筋肉はその動きの度に、マイオカインというホルモンを分泌して、それが身体全体に働きかけているというのです。

したがって、歳をとることによる筋肉の細りは、それが原因でただ運動能力を失ったフレイル状態をもたらすばかりでなく、そうした個々の「脳」を失うことでもあるというのです。

つまり老化によって動けなくなったり、認知症になったりするのは、他の臓器でのそうした弱まりとともに、筋肉での弱まりも、その原因であると言えるのです。

そこで浮上してくるのが、「貯筋」です。

誰しも、老いゆく将来に備えて、貯金や金融資産形成の重要さを説きますが、たとえば、たとえ2000万円相当のそれを持っていたとしても、体全体の筋肉が衰弱し、ただ出歩けないばかりでなく、いくつかの病気をわずらっているとなると、そこまで「貯金」してきた苦労や努力は、いったい何のため、何時のためであったのか、ということとなります。

改めて言うまでもないことですが、確かにそのお金で、薬や入院や手術は買えますが、自分の健康な体は、買おうとしても、どこにも売っていないからです。それは、自分で作ってゆくしかありません。

つまりは、「貯筋」であり、「貯健康」です。言うなれば、「2000万円分の筋肉!」

どっちの「ダビデ像」か

そこで冒頭の二つの「ダビデ像」に戻りますが、その見るもみごとな美醜を表す二像を念頭に、さらに、「自分彫刻」として、主客ともの「彫刻」を刻んでゆく、「山頂なき登山」や「海図なき航海」として、その目指す到達点は何なのでしょう。

上ではそれをパロディー風に描きましたが、私たちの人生に、そうした諧謔を楽しんでいる余裕なぞはないと言ってよいでしょう。うかうかしていると、いっそうその落とし穴に誘いこまれます。

それを跳ね返し、さらに、自分の真の健康をいかに作って行くということが、どれほどに問われているのか、まさに待ったなしの課題となっています。

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