「MaHa」の学的最前線(その9)
私はこれまで、生活者が身を挺して体験している「のっぴきならなさ」を考察の重要なキータームとしてきています。今回は、連載〈「MaHa」の学的最前線〉の最終回として、この「のっぴきならなさ」が提起している、そこに潜んでいた学的な三領域にわたる意味を述べて、この一連のテーマのまとめとします。
前回では、松岡・津田対談『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』の最終章である「第11章 続きを読む
私はこれまで、生活者が身を挺して体験している「のっぴきならなさ」を考察の重要なキータームとしてきています。今回は、連載〈「MaHa」の学的最前線〉の最終回として、この「のっぴきならなさ」が提起している、そこに潜んでいた学的な三領域にわたる意味を述べて、この一連のテーマのまとめとします。
前回では、松岡・津田対談『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』の最終章である「第11章 続きを読む
今回の焦点は、「日本の哲学」とも称される西田幾多郎の哲学にあるのですが、前回では松岡・津田両氏の対談に見出される「主知主義の勇み足」とともに、両者の――ことに松岡編集工学論の――議論のハイライトである「日本の文化」に、なぜかそれが取り上げられていないことを指摘しました。
その松岡・津田両氏の対談の最終章「第11章 神とデーモンの変分原理」では、対談の締めくくり――先述したように松岡氏の事実上の絶筆レベル見解――をしています。その際、科学思想の発展の潮流をめぐり、1920年代のヨーロッパ哲学において、伝統の身心二元論への批判が出始めていたことには触れられています。にも拘らず、同時代の日本においても、同質な批判に根差した日本的哲学の萌芽が、独自な発想をもって出始めていたことには触れられておらず、両者の議論は一挙に、戦後の“電脳”時代へと跳んでしまっている、ひとつの「見過ごし」があります。 続きを読む
松岡正剛・津田一郎両氏の対談録『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』の「第8章『逸れてゆくもの』への関心」での冒頭、以下のようなやり取りがあります。
続きを読む松岡 まず、そうとう陳腐な振り分けにすぎないだろう「理科系と文科系」というタームをつかって、数学を武器として科学的な思考をとても大事にしてきた津田さんと、いわば言葉を道具にして編集的な世界像をスケッチしようとしてきたぼくの立ち位置を、やや浮き彫りにしながら話をしたことなんです、、、
前回の(その5)を引き継ぎ、今回も「観測」についての議論です。
これまではそれを、対談録『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』を解読しながら、学的にアプローチしてきています。
一方、この「観測」について、それを日常視線から取り上げているのが、兄弟サイト『両生歩き』に掲載の記事「《観測装置》たる自分」です。
こうして「観測」にまつわって、二つの記事がほぼ同時並行してアプローチされています。この一見、無関係のような二つの違った議論なのですが、それらの間に見られる同異を照合することで、興味深い発見をすることができます。 続きを読む
ここで、私たち個々が立つ地点と本議論との全体的関係を確認するため、これまでの話をまとめ――山登りの途上、開けた尾根上に達してひとつの展望を得るように――ひとまずの視界を見ておきます。
私たちの生命活動、つまり、人生とは、前回末尾に見たように「不定」で、初めから決まっていたものではありません。要するに、生命活動は、本来、その生命自体が在りたいように、やりたいように活動してきたもので、そういうものが生命です。そうした、ランダムな積み重ねが生命なのです。あらかじめ決まった生命原理やルールがあって、それに従わねばならないといったものではく、そういう“体験”の作り出したものです。 続きを読む
松岡正剛さんの逝去に、日本の書店では、彼の諸著書を平積みにした「追悼 松岡正剛」と銘打つ売り場が出現しているだろうと想像しています。そうした彼のじつに惜しまれる「惨寿」なのですが、その死がそのように訪れなければならなかった理由も、先述した3月7日付け「千夜千冊」の「総括表明」のごとく、自身の「内臓」感覚に、豪気な意図に「かまけた」、無頓着であったゆえです。 続きを読む
いま、手元に『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』(文春新書 1430)と題する本(電子版)があります。同書は、もうたびたび引用してきている編集工学研究所所長松岡正剛とカオス理論の確立者であり複雑性科学の第一人者でもある津田一郎との対談録です。2023年10月に発行された本ですが、私にとって、タイミングとしても内容としても、もっともエキサイティングな一巻です。 続きを読む
MaHaに言わせれば、人間って、きわめて完璧なトリックにはめられていて、ほとんどの人はそれにさえ気付かず、そんなものだと決め込んで生涯を送っている。ただ、もしそれに気付いたとしても、時すでに遅しで、もはやそこにすっかり組み込まれてしまっていて、いまさら、やり直しも脱退もできない所にほぼ釘付けにされてしまっている。それにことは、事前には何の相談も、了承を問われることもなく進められてきていて、いうなれば、実にアンフェアーに、そうした重大な自分事が決定済みとされてしまっている、というわけです。 続きを読む
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