MaHa 前回の「人類〈心〉理改造論」を受けて、話をその先に進めるよ。
そうした、狂気沙汰の道をすすむ人類に「人類〈心〉理改造論」が必要との話のなかで、まずはじめに確認しておきたいことがある。それは、二重の「二重性」があるということ。そして、その二つの「二重性」とは何だ、ということ。
それらの個々の要素はまた、これまでの議論の中のポイントとなっていたことでもあるね。すなわち、
第一の「二重性」は、「健活と終活」にまつわるもので、そこに見落とされがちなことが、無限性と永遠性の区別だ。そしてそれが混同されているという「二重性」だ。
第二の「二重性」は、「貯金と貯筋」にまつわるもので、本当に貯めておくべきものは、お金なのか、それとも、健康の源泉である運動を支える筋肉なのか。ここにある混同がゆえに、あたかも貯金が健康にかわりうるかに誤認されている「二重性」だ。
そして、こうした「二重の『二重性』」がもたらす結末がすでに出現し始めていて、世界の人々はそれがゆえの混乱に迷い込んでしまっていて、その果てに、人類の狂気の道が選ばれようとしている。しかもそれは、初めてでもなく、二度目でもなく、三度目のこととしてである。
相棒 そう言われと、確かにそれぞれ思い当たるのですが、これら二つの二重性って確かに、私たち個々人の生き方のレベルにおいて、そうした違った各分野で、「混乱」をはじめ、「混合」や「錯乱」あるいは「混濁」をもたらす種となっていますね。でも、そういう個人レベルの判断が、最終的に全人類の判断に結び付くということですか。
MaHa そう、そうした混乱が孤立したものであれば、さほど波及はしない。だが、いまやそれは、あまりに頻発しており、それが全世界を一色に染めつつあると言ってもいい。そしてそのごちゃ混ぜになった濁りが、生命の本来の有限性と無限性までごっちゃにし、愚かしく、かつ、狂気の沙汰にも達する、有限性どころか刹那性にさえ捕らわれてしまっていると言うこと。そしてそこが、人類の選択の誤りの起点になっているということ。
相棒 その二重に重なり合ったごちゃ混ぜが、命にとって大切なことを見落とさせているということなのですね。ややこしいですね。
MaHa そこで、その一つ一つをひも解いてゆこう。
相棒 まず、「健活と終活」ですが、そこで僕は思うんですが、「終活」なんてほんとに必要なんでしょうか。それは言ってみれば、人間、永遠への旅立ちにあたって、それに持ってゆけないものがあるから、そうやってあらかじめの始末をつけておかないと、後に問題、ことに身内の醜い争いの種を残してしまうということですよね。つまり、もしもです。もしもそんな面倒なものがなければ、わざわざ「終活」なんて余計な苦労はいらないわけです。逆に「健活」をしっかりやってくれば、おそらく、そのために必要なものはすべて消費されていて、余計な荷物は作られていない。よく言われる「ゼロでの旅立ち」です。
MaHa じゃあ「貯金と貯筋」はどうなの。
相棒 つまり、「健活」に励めば、「貯金」より「貯筋」の身に迫る重要さに気付いて、まず、「終活」は優先順位が落ちて行きますね。言い換えれば、「健活と終活」の違いをはっきり区別できないから、保険を掛けるみたいに、また実際に保険業が繁盛していて、無闇に「貯金」が過大評価され、挙句の果てに、いざ旅立ちの際、余計な荷物をかかえていることに悩まされることとなる。これって、何か変じゃないですか。
MaHa いうなれば、そうとも知らずに、無駄で無意味な努力としての「貯金」と「終活」がされているというわけだ。
相棒 そして、つい、その無駄を作ることに走ってしまうのが、命や意識がその根底にもつ無限性が見えずにいるからです。子孫に残したいことなんて、何もお金を通じなくとも、日々の暮らしのなかで、その「情知」や〈心〉理を通して、いくらでも伝え、残せるはずです。だから、目先のいかにも簡便さに捕らわれてそんな荷物をこしらえてしまうようなことは、ともあれ、避けた方が方がいいということです。
MaHa ところがこの節、多くの人たちは、子孫を考えるからこそ、お金を残してゆくことが大切と考える。つまりは、子孫に本当に何が大切なのかということを考える以前に、そんな余計な荷物作りに駆り出されてしまって、目がそらされてしまっている。
相棒 たとえば、自分たちの子孫というのは、親から子へと脈々とつながれている命の永続性があってのことなのに、それが見えず、自分の身代わりをさせるかのように「貯金」にその思いを託してしまってそれに励む。そしてそれが原因となって、片やでは、永遠の命の担い手であるはずの子孫間に、むしろ醜い争いの火種を作ってしまう。そして他方では、「貯筋」を忘れて健康を崩して病人となり、人に頼るしかなくなって、お金の支配するシステムに落とし込まれてゆく。まさに、命の永遠性を、子孫にも、自分にも、二重に見誤っている混乱です。
MaHa さらに悪いことに、その命の永遠性を見誤る「二重の混乱」を起こさせるものと、自分の子孫を互いの殺し合いに駆り出す発想とは、実は同源であるということだ。
つまり、命の永遠性を忘れ、金品に自分を託し、まして築いてしまった財産を守るためにと、命を否定し合う戦争さえ辞さないとの発想に走ってしまう。何という我執で罪作りな発想だろう。自分や子孫の命を本当に永遠に続けてゆくには、なによりも、平和なくしてはあり得ないことなのに。まして、世界消滅の恐れさえある今日の核武装時代にあっては、その結末は、ある家系の途絶えどころか、あらゆる家系を含んだ、人類の途絶えにさえ至るというのに。
相棒 ところで話は変わるんですが、「貯筋」に励んだ結果って、筋肉ムキムキ人間が思い浮かびませんか。そして、そんな筋肉ムキムキ人間って、見るからに闘い向きの人間みたいに。
MaHa 君は、「貯筋」って、平和的でないって言いたいのかな。貯金に励む人と大金持ちとは違うし、おそらくそれは、物心共のステロイド盲信人間を想像してるからのことじゃないかな。でも「貯筋」ってのは、「健活」つまり日々の健康な運動を通じた結果のことで、「ムキムキ」が目的じゃない。そういう「貯筋」の人って、その健康がもたらすメンタルな健全効果がゆえに、見せかけに魅力は見出さないし、第一、もっと視野も広まるはず。
相棒 つまりは、「筋肉ムキムキ」ってのは、「健活」の結果ではないってことですね。永遠の〈心〉でなく、有限な肉体ファーストとした「終活」の変形なのかも。
MaHa ともあれ、「健活と終活」と「貯金と貯筋」をめぐる「二重の『二重性』」を原因とした視野を狂わす入り組んだ混乱がある。そしてそれが、命に関する有限と無限の区別をも混乱させ、短絡な金品の蓄えに走らせ、ひいては、財物や領土をめぐって互いに仮想敵をこしらえ、相手への不審と猜疑の悪循環を起こして、最終的には、それがもたらす防衛という名の攻撃性の産生に至る。
相棒 つまり、これまでの論点の要は、「健活」の原則である運動と、そこに潜む「金にならない〈仕事〉」の効用をもって、物やお金にかけがえのなさの代行を期待する有限性をきちっと制御することができれば、命の本源である永遠性に立ち帰ることができ、人類がいま、時計を逆回しにし始めているその流れを、再度逆向きに変えれるということですね。
MaHa むろんそこには、まだ「健活」にさほど必要を見出せない若い世代も、たとえば、学校を終えて社会に出ようとするにあたって、「就活」という名の自分の商品化活動、すなわち、すでにそこから始まっている混乱源の「二重の二重性」への合流には、十分に用心して当たることも含まれるね。
くわえて、そうした有限と無限を見分けるために役立つ道具として、「情知」をフルに活用することだ。
相棒 MaHa、これらはたしかに、僕の言う「〈心〉理学」の中身であるプラクティスです。
MaHa 人間、生き延びなければ、命の永遠もへったくれもない。それは確かだ。だがそれをどうやって成し遂げるか。戦争によってか、平和によってか。確かに、勝者となって戦争によって生き延びる方法もある。ただし、いまやそれも、世界を覆う核汚染と死屍累々としたこの球体の上でだ。しかも人類は、その酷い悲惨を、もう二度も体験している。それに三度目を起こしてしまったら、もう四度目は起こりようもない。