MaHa 日本では、暑い8月は、反戦平和への願いでも熱い時だ。そして「ヒロシマ・ナガサキ」は、もはや核廃絶と世界平和のための、世界共通のキーワードとまでになってきている。
6日の広島の平和記念80周年式典でも、湯埼広島県知事は「核抑止力はフィクション」と述べ、その立場は明解だ。また新ローマ法王の教皇レオ14世は、核抑止力論について、「相互破壊の脅威に基づいた幻想的な安全保障」と述べ、これも批判視に立っている。そして近辺では、野党政治家らも、“季節限定”にしないで欲しいが、「ヒロシマ・ナガサキ」は日本だからこそできる主張だとの声を上げている。
かくして、いまや日本の「核廃絶と世界平和」の主張は、単なる理想論としてではなく、現実論として、世界に理解が広がっている。
そこでだよ君、こうして私たちは、世界の状況に我が意を得るだけではなく、それが意味する人類にとっての論理的、倫理的正当さにも立脚する必要があるのではないかな。つまり、実際と理論の結合だ。
そのためにだよ、「〈心〉理学」が本格的に論じられていい時となっている。
相棒 先にも言いましたが、そこまで言われると責任重いです。というのは、僕の「〈心〉理学」のもつ方法的原理は、既存の科学的方法論に立った原理ではなく、人びとの誰もが持つ経験に基づき、それを共有ものにするということです。重要なのは、人生を生きる中で、自身が実験台となった「人体実験」とも言うべき実証を根拠とするものです。もちろんそれは単独では、個人的な体験を越えず、一般化できる定理とは言えません。でもそれを、社会的あるいは歴史的に広がりを与えて事例数の極大化を行えば、それは限りなく一般的定理に近づくわけです。それに加え、その適用分野にしても、人の生き方という実用性を優先する場合、理論的厳密性をゆるめても実際には差し支えなく、つまり「プラクティス」重視の、言わば「ゆる定理」として、現実に採用できる可能性も増してゆくはずです。
MaHa 従来科学の〈客観性〉と、人間体験の〈特殊性〉の半ばに位置する〈実用性〉、すなわち君の言う「のっぴきならなさ」の扱いに役立つ道具としての、その「ゆる定理」というわけだね。
相棒 そうです。そうした、従来の科学的定理に比べ、利用価値の広く、実用性も高い捉え方です。前回の〈「自己商品化」というトラップ〉という議論も、そうした一連の誰もの体験について、そうした現実のもつ意味に無知で、かつ、個々人が無力に孤立化しているところに、無慈悲にも、その「自己商品化」が過酷にまで広がってしまう土壌があるとの話です。政治はそれにまったく無関心などころか、加速させている。
MaHa そうした実用性に焦点をあてる政治的立場で言えば、今度の参院選に登場し、当選者を出した「チームみらい」。そのテクノロジーを駆使した「デジタル民主主義」という政治的方法論に注目できるね。つまり、AI技術を含む情報処理技法が、従来の体験主義では途方もない時間を要して扱い切れなかった、そういう壁を「プラクティカル」に集約し、君の言う「ゆる定理」をもたらしうるとの現実策だ。
相棒 それに、これは僕のような高齢世代が主張したいことですが、いわゆる人生経験というものに関し、それを系統だって集約すれば、単なる個人的体験の積み重ねを越えた共有される知見になりうることです。そうしたアプローチで、その「ゆる定理」のひとつの分野が形成できる。たとえば、兄弟サイトに掲載の「健康って何だろう」との記事にある、健康維持や増進への着目も、従来の「病気の治療」に立った医学理論とは別系統の方法を打ち出している、そうした「ゆる定理」の一例と見れます。
MaHa ただ、そうした個人の体験による数限りないデータは、これまでの手法では、まずその集約作業に物理的限界があるし、それを時間にまかせてアバウトに説くのでは、せいぜい処世術的な説にしかなれなかった。だが、それではあまりに大まかだし属人的すぎて、また、時代的に時がたちすぎて古臭いという、実用性や有用性において決定的に難があった。そこで、そうしたぼう大データの集約方法として、AIをふくむデジタル技術の飛躍的発展は、一部では民主主義に、またここでいう「ゆる定理」の発見に、大いに使用できるものとなっている。
相棒 随分、未来論的ですね。いや、冷やかす意味ではなく、いまや情報技術は、ほんとに、そこまでの新たな社会環境となってきている。
MaHa むろんそれが、従来の新技術のように、新手のビジネスとして、金儲けや投資の対象へとねじ曲げられてゆく恐れも大きい。そして、それが力のある者の道具として、格差の拡大の更なる「神の手」となってゆく。
相棒 だから思うんです。そうした勝手な利用を防ぐ意味も含めて、その便利さの意義づけを、理論的にも倫理的にも体系つける必要があります。それが「〈心〉理学」の使用価値なんです。お金のそれじゃなく。
MaHa でなければ、情報技術は、それこそ「核抑止力論」みたいに、人類自滅のフィクションと化して、自らを縛り、先の見えない、実際もうそうなって来てさえいる、閉塞した世界状況に行き着いてしまう。
相棒 つまり、たとえばこれまでの民主主義は、紙の一票の投じるという実に限定された超アナログな方法でしか実践されてこなかった。それが、情報技術が、単に投票行為に適用されるだけでも、飛躍的な民意の反映の可能性が生まれるでしょう。そればかりか、情報技術が生産労働までも含むあらゆる分野にまで用いられることで、量的にも質的にも、社会の様相は、それこそ革命的に変わるはずです。本来の意味での共産社会です。
MaHa 「適正」な活用が、いまはフェイクな活用のために混乱させられている。私はその点は楽観主義者なんだが、それも人々が次第にこの新技術に慣れてきて、社会の側も必要なルールを定めて、今日、誰もが車の運転ができるように、未来の社会に定着してゆくだろう。
相棒 僕が強調したいのは、技術が人々の敵ではなく、味方であるということです。あるいは、そう出来なければ、人類は結局、滅ぶということです。もちろん、技術を独り占めにしたい勢力は、これまでのように、今後も執拗に我を張るしょうが、要は、そうした独り占めとは、結局、金という抽象化した価値に置き換えるしか蓄積できないもので、実際の有用性は、人間レベルの生きた価値でしか意味をなさないものです。そのためにも、個々の人々の経験を集約できる技法は、今後の世界の分岐点になるんじゃないでしょうか。
MaHa 新技術が、時間も、空間も、集約し、凝縮してくれるという話だ。
相棒 それによって、主観的観点が客観的観点に転化し、一体化するということです。