「MaHa」の学的最前線(その8)

今回の焦点は、「日本の哲学」とも称される西田幾多郎の哲学にあるのですが、前回では松岡・津田両氏の対談に見出される「主知主義の勇み足」とともに、両者の――ことに松岡編集工学論の――議論のハイライトである「日本の文化」に、なぜかそれが取り上げられていないことを指摘しました。

その松岡・津田両氏の対談の最終章「第11章 神とデーモンの変分原理」では、対談の締めくくり――先述したように松岡氏の事実上の絶筆レベル見解――をしています。その際、科学思想の発展の潮流をめぐり、1920年代のヨーロッパ哲学において、伝統の身心二元論への批判が出始めていたことには触れられています。にも拘らず、同時代の日本においても、同質な批判に根差した日本的哲学の萌芽が、独自な発想をもって出始めていたことには触れられておらず、両者の議論は一挙に、戦後の“電脳”時代へと跳んでしまっている、ひとつの「見過ごし」があります。

すなわち、明治の文明開化以降、日本は西洋渡来の諸思想の大潮流にさらされたのですが、そうした日本の戦前期の時代風潮の中で、西田幾多郎はことに西洋哲学の要素還元論に批判的で、自ら禅を体験しながら、彼ならではの哲学思想を開拓しました。

本サイトでは、その“日本哲学の父”、西田幾多郎について、すでに「人生はメタ旅に向かう(7)」の「〈新展開〉章 《哲学する生命》」において、分子生物学者の福岡伸一さんの議論を取り上げる中で注目しました。そこで福岡さんは、生物学、ことに生命科学の最先端の知見として、「動的平衡」という移り変わる生命の動的な容態を提唱しているのですが、その見解は、西田哲学の「生命をその内側から、生命自体になり切ってなさねなければならない」という言明とつながっているとの議論です。つまり、西田哲学の形而上学的な議論と、福岡「動的平衡」論の生命科学の実証的解明とが、いまやつながり始めているということです。

そうした西田幾多郎は、1920年前後、京都大学教授として京都に在住しました。その際、彼や同僚が好んで散策したという琵琶湖疏水沿いの道は、今では「哲学の道」と呼ばれ、人気を集める観光スポットとなっています。その路傍の石碑には、その呼称の由来として、「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」との彼の短歌が刻まれています。ここに歌われているように、彼は重なる不幸に練磨されつつ孤高の内に独自の哲学――不肖私も学生時代、神田の古本屋街で買い求めたその哲学書を読んだ経験がありますが、実に難解でした――を開拓しました。

その福岡さんが、今年の物理、化学部門のノーベル賞に関し、その受賞の多くがAI分野の開拓者に与えられていたとして、「ノーベル賞はAI祭り」と特徴付けながら、以下のようにコメントを述べています。

 生物学の研究は、古くはネズミなどの実験動物を使って現象を解明する「イン・ビボ」(生体内)、次に細胞など生物の一部を取り出して生命現象を再現する「イン・ビトロ」(試験管内)になりました。今回の受賞対象の研究をみると、それがAIを使って研究する「イン・シリコ」(コンピューター内)の時代が来たんだなと感じます。

 今年の化学賞は、たんぱく質の構造研究に焦点が当たりました。化学反応をつかさどる「酵素」も、免疫反応に関わる「抗体」もたんぱく質。筋肉を動かすのもそうです。生命研究の中で最も重要な対象の一つです。たんぱく質の基本要素はアミノ酸。体内では性質の違う20種のアミノ酸がいろいろな組み合わせでつながり、ユニークで様々な働きをするたんぱく質ができています。

 受賞が決まった3人のひとり、デイビッド・ベイカー氏は、アミノ酸を人工的につなげて、自然界にはないたんぱく質をつくった業績が評価されました。

〔中略〕

 ただ、AIは既存のデータの履歴を総合して、最適化した結果を示しているにすぎません。どこまでいってもAIが教えてくれることは自然の「近似」であって、「真実」ではありません。物理学で自然を定式化したり、法則化したりできますが、それは本当の自然を見ているわけではないのと同じです。AIは生物学の複雑な現象や立体構造に対して、近似した答えを示しますが、真実を語っているかどうかはわからない。構造生物学者が実際の実験結果を精密に解析して、「このたんぱく質は確かにそうなっている」という答え合わせをしない限りは、本当のところはわかりません。AIが出してくる答えには留保が必要だということを忘れてはならないと思います

 既存のデータから推定するというAI的な答えの導き方についての具体的な懸念として次のようなケースが考えられます。例えば、まったく新しい公害病が発生したとします。工場が排出している新規な有機化合物が原因であるにも関わらず、既存のデータから推定される通例の原因物質を示して、真の原因解明が妨げられることがあり得ます。新しい感染症の場合も、既存のデータからは新しい病原体を予言できません。いずれも人間による探究と新発見が不可欠です。つまり、人間による検証が必要なことは今後も変わりません

 AIの言うことがすべて真実であると信じると、ジョージ・オーウェルの「1984年」のような世界が来てしまう可能性さえあります。

 AIの決定が常に優先され、それに従わないのは愚かなことだという同調圧力が働くのは危険です。人間の自由意思のあり方を考えてみると、どの治療を選ぶかの自由もあるし、治療や延命を拒否したりする自由もあるはずです。AIはそういう自由を認めない決定を下すことがありえます。「AIの決定に背く自由」が人権の中に含まれる時代が来ることも今後考える必要があるでしょう。

〔下線は筆者〕

この「AIの決定に背く自由」との指摘に接し、この「背く自由」との観点で思うのですが、私事ながら、自分が抱えている前立腺ガンの問題に関し、別記のように、「自己治癒」の兆候をつかみ始めた私自身のほんの最近の経緯があります。この私自身の対ガン取り組みの柱も、ここで言う、一種の「背く自由」によるものです。そしてその「背く」相手とは、現行の医学体系、ことに要素還元的なその医学理論です。

むろん私は、生物学者でも医者でもありませんので、素人としてのかじりうる限りの学的情報に頼るしかないのですが、自分に降りかかっているこのガン罹患と言う、その対象は、ほかの誰でもない、自分の命であるという問題に関し、文字通り、自分をサンプルとした〈人体実験〉とも言ってよい対処をせねばならない立場にあります。そうした私自身の――いわゆる「のっぴきならない」――課題について、福岡「動的平衡」論は、取り組みの確かなヒントを示してくれたわけでした。

こうしたヒントが助けとなって、ひとつの成果の兆候が得られ始めているのですが、そうした体験にも基づき、上に述べた「西田哲学の形而上学的な議論と、福岡『動的平衡』論の生命科学の実証的解明とが、いまやつながり始めている」のは確かと実感しています。そしてその実感はさらに、その難解な西田哲学の言う「矛盾的自己同一」とは何を言わんとしているものか、その〈一見道理の通っていないかのものと自分とが重なり合うとの認識〉として、納得できはじめています。

そのような脈絡において、上記の「見過ごし」がゆえに、先に述べた松岡さんの「見落とし」も生じえたのではないかと、現代の「主知主義」的な立場にひそむひとつの脆弱さを見る思いを否定できません。これはもちろん、故松岡さんの業績に最大の敬意を表し、いささかの毀損の意図はないもので、一般的短見に過ぎません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA