「MaHa」の学的最前線(その6)

前回の(その5)を引き継ぎ、今回も「観測」についての議論です。

これまではそれを、対談録『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』を解読しながら、学的にアプローチしてきています。

一方、この「観測」について、それを日常視線から取り上げているのが、兄弟サイト『両生歩き』に掲載の記事「《観測装置》たる自分」です。

こうして「観測」にまつわって、二つの記事がほぼ同時並行してアプローチされています。この一見、無関係のような二つの違った議論なのですが、それらの間に見られる同異を照合することで、興味深い発見をすることができます。

まず、この二つの記事が発表されている、兄弟サイト『両生歩き』と本『フィラース』という二つの表現の場ですが、〈生活者〉を標榜する私は、その比較的現実に即した表現を前者において、そして、その理論化した表現を後者に掲載してきています。つまり、前者に掲載された「《観測装置》たる自分」は、この「観測」について、この〈生活者〉におけるアプローチを表現したものです。それに対し、本『フィラース』における視野は理論的なもので、ことに松岡・津田両慧眼の士による当対談禄は、そのタイトルにもあるように、今日「初めて語られる」最先端の見識を取り上げている〈学的立場〉によるものです。

このような設定において、私は生活者の体験としてこの「《観測装置》たる自分」を表わし、それに対し、この対談を引用、解読することをもって、その理論的側面や位置付けにフォーカスしようとしているわけです。そして、その現実体験と理論を照合することで、生活者の視点と、科学的な視点と間の橋渡しを成そうとするものです。

「自己」や「意識」の出どころ

対談では、〈「定常的な自己」はなぜ可能なのか〉との見出しのもとで、そういう自己や意識の出どころをとりあげています。

その出どころについての両者の議論は、脳内の働きの「スパースコーディング」つまり「まばらにコード化する」という考えを用いて特定しようとしています。これを実用性を優先して少々荒っぽく整理しておくと、この「コード化」とは、私たちの意識のうちの自己を立ち上げている脳内の働きのことです。

松岡 おそらくわれわれには、スパースコーディングされた「あらかた自分」のようなものが想定してあって、その「あらかた自分」が自己組織化にも顔を出すし、観測者としても顔を出す。けれどもどこが「あらかた」かは顔を出してみなければわからない。顔を出してみて「辻褄」や「因果」があやしい場合は、たとえばホメオスタティック・セルフみたいなものにフィードバックをかけて調整するのでしょう。でも、それはコアでもないしベタでもないよねえ。かといって神のような俯瞰的な関与でもない。適当に概括したミドル・セルフみたいなものでまとめているにちがいない。 
津田 意識に対してスパースコーディングが正しければ、意識はよく言われるように解くことが原理的に難しいハードプロブレムではなく、解決可能な問題だと思います。スパースコーディングをすることで自己が保てるのだとすると、それがなければたえず自己が変わっていかなければいけないので、「定常的な自己」というものが存在できない。全部をデコードしていたらつねに変化していることになるので、いつもいつも違う自分になってしまいます。でも現実はそうなっていない。ちゃんと昨日の自分と一週間後の自分が同じ自分だとわかる。ということは、意識はスパースコーディングによって成り立っているのだと言ってもいいのかもしれないということです。
松岡 あるいは意識はモニターにすぎないか。おそらくそのどちらかでしょうね。しかし、だからこそチシキとイシキが動き出せた。そこに世界観がつくれることになったとも言うべきです。ぼくはそういうことをする自己を「エディティング・セルフ」(editing self 編集的自己)と言っている。この「自己」はスパースコーディングされたいくつかのプレ自己が組み合わさってできていて、ふだんはトータルに全体の崩壊をおこさないようにするんだけど、実はわずかな食いちがいや、わずかな「対称性の破れ」(symmetry breaking)や、わずかな他者の介入を許すような余地はもたせている。自己言及する自己ではなく、対応する自己です。それがエディティング・セルフです。それはスパースコーディングされた「複数自己」(少数型複数自己)のようなもの、「たくさんの私」のようなものですよ。そういう「編集的自己」をかなり初期から想定しないと、人間は物理も生物も社会も言語もわからないんじゃないかと思う。 それは言ってみれば「oneとanotherという関係」だと思うのね。つまり、「あるもの=one」がわかれば「他のもの=another」がわかる、逆にanotherがわかればoneが対応している。そうしたone=anotherという関係がスパースコーディングの秘密なんだろうと思う。

pp. 169-70

なかなか、微に入り細に富んだやり取りですが、要するにここでは意識について、津田さんは「意識はスパースコーディングによって成り立っている」とし、松岡さんは「意識はモニターにすぎない」と述べています。こうした意識の出どころについての二論において、私は、松岡さんのいう「意識はモニター」との見解に注目します。それはすなわち、私が別掲記事に述べた「《観察装置》たる自分」という見方と同類同質のものと解釈できるからです。

すなわち、私の場合、この「《観察装置》たる自分」あるいは「《観察装置》たる自意識」を、運動によってそぎ落とされた、事実上、無装飾な自分を体験するなかで発見していたわけですが、それをこの両者は、以上のような学的追究のなかで発見しているということです。

「意味」はどのようにして生じるか

そこで、この第6章のその先にある〈ノイズや「破れ目」が意味を生成する〉という見出しのセクションに進みます。

それで、ここに挙げられている「ノイズ」とか「破れ目」といわれているものは何かということです。これは私の牽強付会な見方ですが、このように持って回った用語を用いて言わんとしていることは、私たちの日常に沿って平たく捉えれば、いわゆる「ピーンとくる」とか「何かおかしい」とかと感じる、その〈ひらめき〉のことです。

つまり学的世界においては、すでに立証済みの領域にあって、それでもそこに起こってくるその〈ひらめき〉をもって、確立された定説内に見出す「ノイズ」とかその定説を崩す「破れ目」と表現されているわけです。

要するに、学的であろうと、日常的であろうと、私たちの内に点灯したこの〈ひらめき〉すなわち「ノイズ」とか「破れ目」が、その既存の定説をさらに前に進めるきっかけになっているということです。

言い換えれば、この前進をつかむのは、定説を前にして、既存の雑念をそぎ落とした、純粋無垢な《観察装置》による働きによって得られているということです。

そして、そのようにして新たに発見されるものが「意味」であり、またそれは、そのような「ノイズ」なり「破れ目」を見出す、私たちの生命が起こす反応によって発生してきているということです。

津田さんは以下のように述べています。

学術的な「意味」というのはものすごく強固にできあがっているので、ノイズのようなものなしには、研究の多くがおそらく閉じた世界になってしまう。

〔p.180〕

私が生活者として体験する「ピーンとくる」とか「何かおかしい」とかと感じるその〈ひらめき〉も、こうした「ノイズ」に当たるものと捉えられ、だからそれが、閉じた世界に開けられた《窓》になっていたのだと言っていいかと思います。

そのような、じつに不思議かつ貴重な活きの起源となっているのが、私たちが持つ命に拠っているということです。

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