「MaHa」の学的最前線(その1)

いま、手元に『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』(文春新書 1430)と題する本(電子版)があります。同書は、もうたびたび引用してきている編集工学研究所所長松岡正剛とカオス理論の確立者であり複雑性科学の第一人者でもある津田一郎との対談録です。2023年10月に発行された本ですが、私にとって、タイミングとしても内容としても、もっともエキサイティングな一巻です。

というのは、その内容構成から察すると、ある時に一気に対談されたような展開なのですが、あとがきで明らかにされているように、その対談は三年間にわたり、幾度かに分けてなされたものをまとめたものが、10か月前に世に出たものです。したがって、新規さという面では、最先端の学的情報を漏らさず汲み上げており、所要期間という面では、十分に練り上げえた議論のやり取りが濃縮されて、出版の陽の目を見ているものです。

さらに、それが私にとって「もっともエキサイティング」であると言うのは、同書の議論が、私がこの数年間に試みてきている「理論人間生命学」「生命情報」「自己彫刻」「非科学-科学」といった自説をバックアップし、しかも、それらと世界の最先端の学的状況との位置関係を示唆しくれる内容もって、この時期の出版となっているタイミングがゆえです。まさに、読んで、頭と情が爆発状態に至らさせるに十分な書です。

そこでこの僥倖をフルに生かしたいと、以下、過去の私の議論と同書の議論を照合し、願うべくは、私の着想と議論との相関を見出したいとすると共に、同じ山の頂きに、それぞれ別々の山道をたどって到達しつつあるかのような、それぞれ異なった基盤や条件を足掛かりにしながらも、通底した着想の存在にも触れられたらと思っています。

〈選民〉か〈俗民〉か

ところで、その照合作業に入る前に、実に人間的な現実に触れておかねばなりません。というのは、その松岡正剛さんが、この稀有な対談記録をなんとか出版した数か月後の2024年3月7日、彼のウエブサイト『千夜千冊』に、以下のように、ただならぬことを書いています。

内臓感覚は情報をサリエントにさせていたのである。そうすることで、脳はとっておきの相対的顕著化という編集力を発揮してきた。それならぼくは、20代半ばには内臓感覚による編集にとりかかるべきだったのだ。そんなこととは露知らず、編集知をアタマでっかちにしすぎてきてしまったようだ。
 それでもわが編集知が、早々に寺田寅彦(660夜)の割れ目、杉浦康平(981夜)のデザイン、土方巽(976夜)の舞踏、ルイジ・ルッソロのノイズ音楽、ジャコメッティ(500夜)の痩せ細り、イサムノグチ(786夜)の不完全性、観世寿夫(1306夜)の能仕舞、芭蕉(991夜)の「わび」などに向かえたのは、編集知にはそれなりのサリエントでスパースな情報感覚が突沸していたのだと思いたい。
 とはいえ、ぼくはこの恩沢に富む突沸にかまけすぎてきたわけである。それをいいことにジンセー晩期の歪曲の何たるかを惧れずタバコをずっと喫いまくってきたわけだ。内臓感覚によるバイオフィードバックをないがしろにしてきたわけだ。傘寿が惨寿になっても仕方なかったのである。

『千夜千冊』1844夜「脳と腸」より

これは、淡々と書かれてはいるものの、《実に壮絶な人生の総括表明》であると私は読みます。そして私は、「タバコをずっと喫いまくる」生き方をする彼――私より2歳年上――に、私の先輩世代によく見られた、「突沸」し合う者同士が共有する、ある種の「バンカラ」な覇気を見出します。ただ、そうではあるのですが、私は、そうした先達を見ながら、私が臆病心から抱いてきた思いは、そういう「かまけた」スタイルに発見してしまう、非合理性であり生命活動の浪費でした。

そういう、わずか二歳の差でしかないのに、これほどに、しかも彼ほどの「博覧強記」〔上掲書 p.3〕な人物が、どうして、「ジンセー晩期の歪曲の何たるかを惧れず」――ことごとく有害と断定されてきている喫煙にかくも無防備――に居られたのかという、自身の命の営みの受け止め方に関する、理解の困難な隔たりのあることです。

この違いが生じたその起こりについて、これは私見に過ぎませんが、俗人的観点から言えば、才能に恵まれ過ぎていた人物が陥りやすい無意識にもおよぶ〈選民意識〉による盲点であり、学的観点において言えば、人間の意識とは、「映画館現象」とも譬えられる、高度な生物活動として出現している《生命情報の発火現象》と考えられるものであることです。そしてこれを平たく言えば、俗人には、そのような贅沢をしている余裕はなく、諸学には、その観察者を観察する視点の見落としがあるからであると見ます。

  • 〔挿入記〕
  •  この原稿を書いている最中の8月21日、この松岡正剛さんが、12日に亡くなっていたことが報じられました。予感はしていましたが、まさかそれを表立てることはできないでいました。それがこの報に接して改めて、以下のような感慨を否定できないでいます。
  •  松岡さん、「ジンセー晩期の歪曲の何たるかを惧れず」とおっしゃられてもやはり、下種な表現で極めて申し訳ないのですが、一種の「バンカラ」な粋がりではなかったのかと受け取ってしまいます。本当に、もったいない逝去です。
  •  そんな複雑な思いをもって、その死を心から悼ませていただきます。

この〈選民〉か〈俗民〉かとの分かれ目は、当人の主観的な意識とは無関係に、その観察者を観察する目を通すことによって、学の基盤の根本的なずれが浮かび上がります。以下、〈選民〉と〈俗民〉という視点のずれという観点と共に、その「照合」作業に入って行きます。

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