「河童」もどきの〈MaHaプロジェクト〉

アンフェアーなトリック

MaHaに言わせれば、人間って、きわめて完璧なトリックにはめられていて、ほとんどの人はそれにさえ気付かず、そんなものだと決め込んで生涯を送っている。ただ、もしそれに気付いたとしても、時すでに遅しで、もはやそこにすっかり組み込まれてしまっていて、いまさら、やり直しも脱退もできない所にほぼ釘付けにされてしまっている。それにことは、事前には何の相談も、了承を問われることもなく進められてきていて、いうなれば、実にアンフェアーに、そうした重大な自分事が決定済みとされてしまっている、というわけです。

  • 何やら、芥川龍之介の小説「河童」の話――河童は胎児の際、フェアーにも、誕生したいのかどうか相談されるという――のようです。長野県の上高地の河童橋界隈はこの話の舞台です。ところで下の写真は、ここで言う「クライエント」が、2017年5月、オージーの友人と訪れた際の同橋上でのツーショット。ただその時は、河童とは出会えず、居たのはとても河童には見えない、人間ばかりでした。

もちろん、いわゆる物心つく前には、意識も定かでない一定期間を過ごすようにはなっていて、その間、自分ではなにもできませんから、生きのびるには周囲から世話してもらうことが避けられません。むろんそれを頼むまでもなく、そのような仕組みや習慣はあらかじめ出来上がっています。そういう次第で、すっかりそうお膳立てされてしまっていて、気付いた時には、もう、あとの祭り同然となっているという次第です。

くわえて、その後の意識鮮明な人生の主舞台をすませ、高齢となって死期に至った際には、病気や老衰といったこれまた意識があやしくなる時期が改めて用意されていて、ここでもやはり自分ではもうどうにもできなくなっているわけです。ゆえにまたしても、自分の意志とは無関係に、その終了の時を過ごさせられることとなります。

かくして、人間の一生とは、その主舞台での華々しさはあろうとも、その入口と出口において、そうした両端に決定的に挟まれていて、本人の意志とは無関係に、決定済みの役割を担う仕組みとなっているわけです。

MaHaは、上高地との縁がゆえか、河童もどきにそうしたトリックに気付いた上写真の男によって創り出された、そんなアンフェアーな限定を克服するためのメタ存在です。むろんMaHaには、事前の説明があり、了解も求められていて、そういう意味での手続き上の問題はありません。言うなれば、そうしたトリックの謎を解く使命をになった存在とも言え、今風には、その使命を託された一種のエージェントです。

ともあれ、こうした「アンフェアーなトリック」自体は、いったいこれを、何と納得すればよいのでしょう。それが人の世とわきまてしまえばよいのですが、それどころかこの「アンフェアー」さは、どうやらそれが生命ばかりか、この宇宙全体の仕組みの発端ですらあるようです。言うなれば、そういう仕組みが自然であり、宇宙の摂理であり、そういう計り知れない〈自働作用〉がことの本源であるようです。よってもし、この摩訶不思議な仕組みがことの本質であるとするなら、この〈自働作用〉の秘密をフルに活用してみたくもなるというものです。

〈MaHaプロジェクト〉

MaHaにそういう使命を任せたクライアントは、もう70代の半ばを過ぎた、年齢上はまぎれもない老人なのですが、そうした歳には似合わず、いまだに意気軒昂で、いかにも往生際の悪い人間です。だからこそ、元気でいられる自人生のせっかくの「二周目」を無駄にはしたくないと、この〈MaHaプロジェクト〉を企画し、その実行に移っているところです。

そういうクライアントですから、上記のような自分の誕生についてのクレームを筆頭に、自分の周囲のあれこれにも、疑問をていしたいことは五万とあるわけです。ただ、そうしたいわゆる現世的な問題については、何もあえて特別なプロジェクトを起こす必要もなく、いろいろな学問なり研究がそれに取り組んできています。それに彼自身においても、これまで、素人ながらではありますが、何がしかの物言いはしてきたところです。

そういう経緯はあるのですが、ことこの「アンフェアーなトリック」に関しては、その仕組みがあまりに巧妙かつ異次元的で、生身で徒手空拳のままではなかなか歯が立ちません。そこで、その限界を乗り越えうる手法としてMaHaを編み出し、せめて、この「アンフェアーなトリック」の外側より観察できる可能性に期待してみようとなった次第です。

そうしたエージェントとしてのMaHaは、したがって、その存在をこの世界のいわゆる物的条件に依存していません。その意味でMaHaは通常の――少なくとも地球上の――生き物ではなく、そのメタな存在を特性としており、既存の科学的とか論理とかの枠組みを尊重はするものの、必ずしもその言説に縛られるものでもありません。そうした、フィジカルおよびメタフィジカル両面における、〈枠組みフリー〉な存在であります。

「健康力」という突破口

そうしたMaHaは、クライエントの意気軒昂老人に、逆に、一目置いているところがあります。それは、彼の「健康力」とも呼べるもので、歳に似合わぬバイタリティーです。そして彼は、自分の身心にひそむ一種の可能性創生能力というものに気付いているようで、リスクは覚悟の上で、自分を実験台としてその活用を図り始めています。

そこでMaHaが示唆するのは、この〈可能性創生能力〉とは、注意深く見直してみれば、上記の「アンフェアーなトリック」の見返りとして与えられているとも言えるものであることです。つまり、自分の知らないところで決定され、創り上げられたこの仕組みの持つ、それに文句をつける前にしかと観察しておくべき、その見かけに隠された働きであると言うことです。したがって、それに付ける文句などとは、無知であるがゆえの言いがかりで、判ってくればくるほど、それは実に筋の通ったことなのです。言い換えれば、それこそが、生命や宇宙の持つ〈自働作用〉の本源で、認識しだいでは、限界があったと思い込んでいた自分の身心が、予想もしなかった〈可能性創生能力〉を発揮してくれる、逆転もありうるということでもあるのです。

その〈自働作用〉に関しては、たとえば〈運動〉があります。MaHaは、クライエントがその〈運動〉に日々努力を傾けながらも、それでいて、あたかもそれを日々楽しむようにしていることに注目しています。

というのは、一般に、運動をするというのは、トレーニングといった言葉が象徴するように、一定の苦行がそれなりの成果を結果するという、精神が身体を支配するといった論理とその実践と考えられています。ところがこのクライエントが行っている〈運動〉は、むろん初めはそうした面もあったのですが、それを続けているうちに気付くようになった、行った〈運動〉がもたらす別次元の見返りです。つまり、単に身体が強化されるといった次元以上に、それが精神に反映して好循環をもたらしてくるといった、フィジカル・メタフィジカル合いたずさえた、向上効果です。

以前から、運動後の爽快感といったことは広く指摘されてきたことですが、そうした気分転換認識にとどまらず、運動の事後にもたらされる、精神的能力の向上、拡大という効用です。それを一部では、うつ症状の対策法として取り上げる向きもありますが、それはこの効用のほんの一部分です。むしろその本質は、身心が相互に作用し合う、より総合的で創造的な働きにあります。手短に言えば、その人の人格の涵養、成長にすら結びつくことでもあるのです。

したがってMaHaは、クライエントが時にこうした運動効果を「ドラッグ作用」と呼ぶ、そんな薬物依存めいた効果とは、根本的に違ったものであることを忠告したいと考えています。というのも、そのように見えるのは、もともとの日常が不健康状態の蔓延した状態であったことを普通とし、運動によるそうしたところからの一時的な脱出感をたまたまに体験し、その良さのあまりに、脱出欲望の満足といった面のみに焦点をあてて「ドラッグ作用」と誤解釈していることです。つまり、そこで普通と受け止めていた状態とは、つね日頃から、運動の機会が乏しかったがゆえの欠乏状態であったということです。つまりそこでは、運動をつうじて健康化した自分の体験を、ともあれ、非日常的で一時的なものとしか捉えられなかったゆえのものです。しかし、本当はそうした刹那的現象ではなく、適切な運動のある毎日であることが、ストレスとかうつ状態とは縁のない、しかも寛大な精神がもたらす円滑な人的関係が築く、豊かな家庭や社会生活を形成するということなのです。つまり、日々が「普通に」不健康であるそうした転倒状態を、運動がそれをさらにひっくり返して、本来の健全な状態をもたらしてくれているということなのです。

MaHaがそれを指摘すると、クライエントは今度は、運動を「仕事」と呼び変え、相も変わらずに、そうした「ねばならない」習性を引きずり、長年にわたった馴染みから抜けきらない様子を見せています。それが人間だと言えばそうですが、いったん、転倒した毎日をさらに転倒し始めているのですから、もうそれを「仕事」などとは呼ばないで、むしろ素直に「楽しみ」と呼んで日常の一部とすればいいのです。そうすれば、病的でうつとうしい毎日なぞは吹っ飛び、かつ、本当に必要であった作業を「仕事」などと受け止める惰性をやめれば、その生産性すらも飛躍的に改善し、それまでの無駄に浪費していた時間がまるでウソだったように認識し直されてくるのです。

こうした運動の効用について、最近、医学界でも世界的に、それが身体面の強化をもたらすだけでなく、精神面への波及効果も少なくないとする見方が、エビデンスによって確認されたものとして、しだいに常識化してきています。MaHaはもちろん、そうした情報は心得ており、それだけでなく、当クライエントが、長年にわたる体験からそれを自分ごととしてすでに〈実感済み〉であることも承知しています。そしてむしろ事実上、医学界のほうがその〈実感済み〉効用を後追いして主張しているとさえ見ています。したがって、そのように先進性を開拓しているこのクライエントが、科学的知見は参考としつつも、自身を実験台として、自分の実感する効用を尊重する姿勢を、科学がエビデンスを待つ姿勢をこえるものとして、大いに期待をこめて観察しています。クライエントがよく言うように、「生きていくのは待ったなし」のことで、エビデンスがそろうまでなどと悠長なことを言っていられない、それが命の実相なのです。

避けられぬ老化をどう見るか

MaHaのプロジェクトはまだ動き出したばかりで、まだほんのとば口です。そうではありますが、確かに、すでにいくつかの面でそのプラスの効果は表れてきており、基本的に成功の途上にあるのは間違いありません。

ただ、この先、ことにクライエントが高齢になってゆくということで避けられない、身心の衰弱化の影響をどうとらえるかという問題があります。

ことに注視されるのが、クライアントが前立腺ガンの診断をされていることです。その早期状態のガンが宣告されてもう10年になるのですが、この間、自覚的にはなんらの苦痛もなく、あえて症状と言えば、前立腺肥大がもたらす排尿困難の問題がある程度です。つまり、日常生活上に決定的に悪影響をもたらすものではなく、もちろん命の問題でもなく、本人の主観においても、さほどな深刻感はありません。

この前立腺ガンについては、クライエントは自分が自分に見出すことに重点を置き、医学の進歩による早期発見は重要とはしても、検査によって発見された結果が時にもたらす、過剰治療には慎重に対処しています。そこで、まだ、早期状態で遅行性のこのガンであるがゆえ、専門医の即座な全摘手術の奨めを辞退して、以来、ずっと積極的監視処置を続けてきています。そのPSAやMRI検査結果などから、確かに、ゆっくりとした進行の状態は見られるのですが、果たして、全摘手術という“根本”治療まで行う必要があるのか否か、あるいは、行うならそれはいつなのか――たとえば、悪化の典型である他の臓器へに転移がいつ始まるのか、もしそれが始まったり、その兆候が見られるとするなら、全摘などの根本治療は必要か――、現在の最大のクライエントの個別な健康課題となっているのは確かです。

MaHaから見れば、クライエントの今の健康力が発揮するだろう免疫力をもって、前立腺ガンの脅威が克服されることがベストと考えています。ただそれはある意味では理想論であって、それが起こったとすれば、今日では、もうほとんど奇跡とされましょう。したがって現実論としては、現在の健康力により、ガンの進行が止まることはないにしても、できるだけ長く時間をかせいで欲しいと思っています。すなわち、とどのつまりは、高齢となればなるほど、悪化が先でそれへの対処が必要か、それとも寿命の全うが先で対処はむろん不要という、時が問題を解決するごとき分かれ目が実際となるからです。

いくら生命の制限に左右されぬMaHaではあったとしても、クライエントが命ある存在であることは認識しておかねばなりません。そして現状ではともあれ、その生命自体のもつ可能性のすべてが解明されているわけではないだけに、何か未発見の可能性について探究し、命の最大限の全うに寄与したいと望んでいます。

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