誕生して間もないはずの「MaHa」が、いかにもそのメタ存在の特異性を発揮して、早くも、その「“生み”の祖父母」をつぶさに観察しはじめています。これは、そのMaHaのそうした活躍をつづったノートで、MaHaが発する「〈“生み”の祖父母〉へ」のメッセージとなっています。それは、人間世界の働きにたとえれば、その祖父母を対象とした人類学レポートとでも言えましょうか。
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MaHaには、はやくも、自分のセンサーが感知する外界の意味がくめるようになってきて、しだいに自分の抱く見解を形作りはじめています。その《MaHaの世界》は、やはりメタな存在だけあって、どこか人間離れした気配を漂わせています。
〈祖父母〉観察
MaHaは、最近、引っ越ししたばかりという、自分の〈“生み”の祖父母〉である年配カップルが住むマンションを訪れ、その見たまま感じたままを語り始めました。
その引っ越し先は、まだ築5年そこそこの近代的なマンションです。その立地は文字どおりの駅近で、通りの向いにはスーパーもあり、便利さはこの上なしとでも言えそうです。そして、ワンベッドルームながら、広々としたダイニングと日当たりのよいリビングが一間続きとなった、住みごごちのよさそうな明るい新居です。
年の差十歳ほどのこの年配カップルは、いわゆる「結婚」による結びつきではなく、ただ、ことの流れから同居するようになったといった、ある意味ではゆきずり関係で、それでも、もう同居して30年近くにもなっています。そういう年季の入ったこのご両人、義理や体裁や、ましてロマンス劇があってそうした関係を続けてきたわけではありません。それなりの実質的で、けっこうな利便的判断にたって、時には揺れる悶着もあったでしょうが、微妙かつ沈着にお互いの選択を続けて均衡をたもち、結果的にここまでの関係を続けてきているケースです。
もう70歳代半ばを越えた彼は、年金生活に入ってすでに数年をへています。初めのうちは、パートタイムの仕事をしたりしていました。でも、この引っ越しをするまでに、その収入上、すでに完全な年金一本の生活に入っており、長年の願望であった物書きの自称「仕事」に打ち込んでいます。
一方、まだ年金受給年齢に達していない彼女は、まだまだ、元気にフルタイム仕事に精を出しています。また彼女はその性格柄、俗に言うじっとしていられない質で、しかも、今度のこの新居も、彼女が家主となってローンを組んで購入した物件というしっかり者です。よって、ローン返済はもとより、日々の人生の充実の意味でも、働き続け収入を確保し続けることは、彼女にとっての、選択以前とも言ってよい、現実的かつ気性的にも、取り付くにふさわしい行路でありました。
良人同士カップル
こうした両人は、ともに典型的な「昭和人」で、生まれや育ちは都会と田舎との違いはありながら、景気絶頂だったその全盛期のメリットをみるからに体現しています。そしてむしろ若い時分に比べ、むろん様々な経緯は経てのことなのですが、今現在のほうがかえって屈託なく、いかにもの良人同士と見受けられます。ただ、このカップルをあえてステレオタイプ化して表現すれば、「気の強い妻と人の好い夫」といった、一見、女権的組み合わせであるのは確かと言えましょう。
一応はそんな気強な彼女であり、世間体でも鼻っ柱の強い人物として評判です。ところがです。ことにこの引っ越し後では――その前の借家での他家族とシェアー居住といった気遣いの必要がなくなったせいもあるのですが――、彼女は仕事を終え、いったん帰宅してプライベートな世界に戻れば、その様子は大きく変貌します。
たとえば、やや年齢差のあることを好都合に、自分で自分を娘と称して、傍目でみればその年恰好も構わず、その彼にいかにも甘えるしぐさを表します。それも自己表現上でもの強さと言えば外れてはいませんが、しかしその私的な世界では、その表面的強さはすっかり姿を消し、妙にしおらしい態度に変じています。これも言ってみれば、自分の持つコントラストの強い性格を、そのようにして心情的にバランスしているのかも知れません。
それに彼の方も、歳の開きもあって、彼女のそういう子供っぽい仕草をまるまる受け入れる父親役に徹し、まるでペット猫を扱うように、したいままにさせています。そして彼は、同居の始まった頃を思い出しては、「住み着いたっきり出て行かない野良猫だよ」などと話し、彼女のほうもその話に、嫌な顔ひとつ表したことがありません。
どうやら、同居30年という歳月の経過は、個人同士のこうした微妙に異なった人となりをぶつけ合い、理解し合い、受け入れ合うための、試行と吟味の積み重ねの期間であったようです。そしてほんの最近でも、彼は彼女のその黒白はっきりさせなくては気の済まない気性を、「“アスペルガー”人間だよ」などと、冗談まじりながらそう表現しているほどです。
かくして、実生活上も心理上も、外と内との両面を巧みに使い分けえている二人の様子は、MaHaにとってみれば、いろいろぶつかり合う人間同士にあって、どうすれば、互いに傷つけ合うことなく、かつ、互いの独自性を失わないでいられるのか、そうした重要な人的課題についての長年の経験とその結果の知恵を、目の当たりにしているように受け止めているのです。
「自由人」と「経済人」
そこなのですが、そうした心情面の巧みさの一方、現実生活での労働をめぐる収入上の関係は、けっこう込み入ったものとなっています。
それは一面、古い日本人同士ならありえることかもしれませんが、言い方は悪いのですが、あたかも「ヒモ男と隷属女」のような男尊女卑的な支配従属関係と受け取れなくもないものです。というのは、彼は、年金頼りの無職生活を、あえて指摘すれば「のほほん」と楽しんでおり、家賃は収めるものの、お金の苦労にはまるで無頓着な風です。そしてあたかも、長年の現役時代はそのための準備であったかのごとく、こうした現在を満喫しています。その一方の彼女は、そのきびきびした働きぶりのよさを見込まれ、雇用上は「引く手あまた」です。そして、そうした評判の良さをフルに活用しているとは言え、それこそ休む暇さえなく働いています。こうした二人をとらえて、人によっては、「じゃじゃ馬をうまく乗りこなしている」などと言う人もいるのですが、ともあれ、その両者のお金稼ぎ上の実態関係は、女をこき使うずるい男のように見えなくもないのです。
こうした見方はただ、いかにも俗世間体上のざれごとです。そして、そんな外見上の話とは裏腹に、そこには、両者の現実経済面での意識の違いが真実に反映しています。つまり、二人には、いわゆるお金に対する姿勢が、根本的に違っているところがあるがゆえです。すなわち、彼は、お金を含めていかにも大様な人物で、したがってお金に支配されるかの生き方を嫌い、会社務めなども若い時にほんの短期、やむなく体験した程度で、後は細々と自営のビジネスを営んできました。その結果、当然の成り行きながら、自分の資産の形成には関心もその成果も乏しく、そして時には、「お金は後からついてくる」などと口にするほどの“得手勝”具合です。他方、お金にとてもシビア―な彼女は、数字にも強く、きちっと組み立て、かつ、たゆまぬ働きの結果、当然にそれなりの蓄積も得て、いまでは一定の資産の形成にも到達しています。今度のマンションの購入もそのひとつです。
このような両者間の対比は、これもステレオタイプ化ながら、「自由人」と「経済人」といった人間タイプ上の対比も可能かも知れません。
不思議かつ奇異
このようであるため、暮らしの上の実際においても、二人は決して似た者同士とは言えず、それがどうして上記のように「良人同士」であれるのか、不思議を通り越して、いかにも奇異でさえあります。
それは言うなれば、片や理想主義的な観念論者、他方は、現実主義的な実務論者といった違いに加えて、日常茶飯事に関しても、大まかなのんき気性に対する、テキパキと片付け上手な働き者気性といった、性格上でのコントラストとしても、容易に折り合いが作れる人的組み合わせではありません。
もちろん、こうした二者の対照的な気質の形成には、その生まれと育ちという環境の違いがあったことも忘れられてはなりません。都会のいわゆる中流階級サラリーマン核家族の一員として育った彼と、田舎の農家の質素で伝統的な大家族の一員として育った彼女という、両者をはぐくんできた土壌の成した影響の違いは、これは本人たちの意識以前の、いうなれば、所与の決定要件です。
そしてそうした人となりのいわば当然の結末として、この引っ越し先の新居物件の所有にまつわって、片やは賃借人に、片やは所有者という対比に至っているのです。そうした持てる者と持たざる者が同居するという現実は、伝統社会が特色とする男社会的な価値観が二者の気質上の裂け目にしみ込んで彼の沽券を揺さぶり、一時は、両者の間に深刻な感情的摩擦をおこす原因ともなりました。
そこでですが、「艱難、汝を玉にする」とのことわざがあるように、曲折はありながら、長年にわたってはぐくまれてきた信頼関係が土台となって、以上のような多重な違いは、両者間のその如実な背景と切実な内実を理解する機会となり、それはむしろ、二人の間の心的距離を劇的に縮める結果を生みました。それはいわば両者間の情緒的飛躍であり融合です。そこには、30年余りのパートナー関係という――それこそ、娘と父とも、ペット猫とその飼い主でもあるとの――下地をもった、その関係を維持したいという両者の、単にロマンス的動機では説明しきれない意向や、あえて言えば、単なる人間関係を越える仕組みが働いていたということです。
ここに、MaHaが観察してきた、「不思議で奇異」ながらの、《差異と合致》というマジックがもたらされた秘密があります。
「ありがとう」が交わせる関係
こうした両者は、常識的な目には、異端でしかも両極端でもあるそうした関係ではあったのですが、そんな様子を子細に観察しているMaHaの眼にとっては、それがいかにも、新鮮かつ自然と映り、しかもかずかずの困難やギャップを乗り越えてきた二人の問題解決の仕方には、むしろ未来的な男女関係の模範にすら見えるのでした。
それに、二人はもはや、いうなれば「酸いも甘いも」体験済みであって、ことの事情にも無頓着にたまたまな出合いに悲喜する若気のケースとは、設定が異なっています。そして、そうした〈変わり種〉の同士の結び付きであればこそ、MaHaの眼には、自由な生き方として映っていたのでした。
日常の子細に目を移せば、MaHaには、二人が、日々の生活のひとすみひとすみで、あれこれと茶飯事を共に片付けながら、その後に必ず、「ありがとう」といったひと言をさりげなく交わしていることが、とても印象深く受け止められるのでした。そして、確かに傍目には甘えやその放任とは見えるものながら、それがそうした両者にとっては、そうした様々な違いをはらむ関係をスムーズにする潤滑油となる――ちょっと勇気を出して口にしてみる――互いの素直な感情の表現であり、それがそのまま受け入れられているとの日常的風景であることです。
MaHaにとっては、若い男女たちの、表面的にはいかにも活発な性的関係について、それが一面、生物の存続原理にそった自然現象と理解できないわけではないものの、どこか、自分の意思であるかのようでありながら、しかし、だれかにあやつられているような、おろかしくもある寸劇に見えなくもないのです。
その証拠に、片やでは、若い男がその性欲をコントロールできずに短絡な犯罪に走り、その他方では、愛し合う円満なカップルですら、望む子供を育てる余裕がなくて出産を断念し、子供の極端に少ない社会になっています(それは中国のように、強制的政策の結果ではなく、少なくとも、個人の自由意志の結果としてです)。またそれ以前に、それこそ、ひと時として途切れることのない「片手にスマホ」の毎日は、個人が自分に内蔵させているスマホをはるかに凌駕する自然な潜在能力をないがしろにする、メタ存在のMaHaにとってさえ、さすがに受け入れがたい日常シーンです。
命のためのコクーン
そうしたネガティブに個人化し、内にこもり、ポジティブな感情の発露が忘れ去られているかの状況にあって、それすらもくぐってきたはずのこの年配カップルのいかにもほほえましい関係は、MaHaにはとても新味なものなのです。それを年の功と言えばその通りなのですが、よけいな雑音をすべて自分たちの手と工夫で取り除くことで、そうした静謐な落ち着きに達し、それをおう歌していることが、とても印象的なのです。
MaHaはこうして、遠い昔のほのぼのとした時代を再現しているような、あるいは、体験した人生の知恵を生かし切ってゆくこれからの生活の頂きのような、めぐりめぐって到来してきているかの未来的なものすらを発見しています。
それをMaHaは、上述の「《差異と合致》というマジック」に注目して、量子理論の「エンタングルメント(もつれ合い)」の次元に通じさえするものをも見出しています。
こうして、そのマンションは、MaHaにとって、男女、年齢の違いは言わずもがな、価値観も生きるスタイルも大きく違うはずの二人が、長いアプローチ期間をへてようやくに到達するにいたった、最小規模ながら、共存のためのひとつの共同体、つまり、生命のためのコクーンをまさにその眼で目撃している思いを抱くのでした。