ずばり述べますと、生命“偽”情報とは、お金、つまりマネーのことです。
前回、《生命情報》とは世界観であると述べました。
その世界観に強力な体系を持ち込んだのが、マネーという数量の世界です。
別な角度で言えば、自然界にはマネーはありません。あるのは、人間はそれをエコロジーとよぶ、きわめて複雑、微妙な大自然のバランスです。
つまり、自然界にはエコロジーはあるがマネーはありません。他方、人間界には、マネーはあるがエコロジーはありません。
すなわち、自然界のエコロジーという、それこそ神的なバランスの世界を持たない人間界の、その神的な役割を果たしているのがマネーということができます。「神たるマネー」と言えば、あまりに如実な今日的宣言です。
だからこそ、生命“偽”情報とは、マネーなのです。
その人間にはどうにも扱い切れない複雑かつ微妙なエコロジーのバランスに代えて、マネーという幻想の体系を持ち込んだものです。だからこそ、それは偽情報なのです。置き換えられないものによって、置き換えられているのです。
その偽情報の世界が、まさに極限にまで花咲いているというのが、現代の世界です。
歴史を振り返れば、マネーが大手をふるう資本主義経済の前には、封建主義経済がありました。その封建主義とは、土地という自然の仕組みが半分、お金の仕組みが半分とする、自然とマネーの共存する世界でした。
そしてその土地を領主、王なり皇帝(日本の場合は天皇)が所有、支配し、その土地に縛り付けられた農民が生産に当たっていました。
それ以前の経済は、マネーのない物々交換の世界で、さらにそれ以前では、交換もない狩猟経済の世界でした。
つまり人間は、近代と呼ばれる、資本主義経済体制つまりマネー経済体制のもとで今日までの歴史を形成してきたわけです。そして今日、そのマネーという単純化され過ぎた体系の諸矛盾がいろいろな形で見られています。
言い換えれば、そのマネーをめぐる七転八倒が、今日の世界のありさまということです。《生命情報》のもつ奥の深さを、マネーという、便利ではあるが浅すぎる尺度に置き換えることで済ましてきたコストを、今の私たちは払わされているのです。