本シリーズでは、松岡(8月に故人に)、津田両氏の対談『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』の〈牽強付会〉な読解を続けているのですが、今回は、その第6章「言語の秘密/科学の謎」です。
まず、この章で、私が我が意を得たりと膝を打ったのが、以下のくだりです。すなわち、物理学者の間で言われている「スケール問題」という、ミクロ現象とマクロ現象を区別する問題にかかわるものです。ところが私は、そこに区別はないとの自説をもって、これまでの議論を述べてきています。そこでは、失礼ながら、「スケール問題」というのはどうも、視野を限りたい物理屋さんの用いる方便じゃないかと勘ぐっています。
さて、そうした物理世界の一部の定見に対して、この両者の対談が到達している、私にとっては見逃せない以下の部分です。なお、この引用中の下線は、私によるものです。
津田 そこですね。物理学の話からします。
〔pp.164-5〕
〔中略〕
その〔ニュートン力学の〕理解に則れば、相対性理論であろうと量子論であろうと、物理学は因果的に書かれていますね。ただミクロの量子論においてはその因果性がやや破れるという見方が可能なので、いわゆる「観測の理論」をちゃんと入れないと因果は成立しない。量子的対象には不確定性関係があって、粒子の位置と運動量は同時には決定できない。つまり、速度を決めたら粒子の場所はわからないし、場所を特定できたらどんな速度の運動かを決めることはできません。つまり、因果的に粒子の運動を決定することができない。観測するという行為によって初めて量子状態の一つが決まるという因果性が出てくるわけです。
松岡 はい、それはそうだけれど、そういう物理学の因果性が巨視的であれ微視的で量子的であれ、生命活動の情報の動向にもあてはまるかどうか。そこはどうですか。
津田 むろん物理学の因果的記述がそのまま脳に適用できるわけではありませんが、言いたいことは物理学の因果性は人がそのように見ようとしているもので、物理現象そのものに因果性はないということです。現象はあくまで意思を持たない。そこにあるだけです。しかし、それを理解したい人間にとって理解の方法として因果的方法がある。脳科学はまさにそういう意思をもつ脳の研究です。われわれの脳は意思や意識経験によって因果性を作っていくのだと思う。ですから、トリガーは意識(とくに自意識)の存在ということになります。
ここで改めて、私の言う「生活人」という立脚点について確認しておきます。
この対談においては、松岡・津田の両者が立っている立場は、アプローチの角度は異なるにせよ、学的追究の一環においての見解です。その一方、私の立つ立場は、そうした学的追究結果を、私たちの人生にどう実用化できるのかという応用です。だからこそ、幾度も言うように、「のっぴきならない」のであり、その立証結果が出るまで待ってはいられないところにいるものです。(嫌みな言い方が許されるならば、生活者とは、研究者としての立脚点を持たない、自力で行う生活にさらされている、かすかすの立場です。)
そうした二つの立場間に何とか学的な面からの橋渡しを行うことを念頭に、この「観測の理論」とか「観測するという行為」と述べられている学的立場を、この生活者としての視点に移してみれば、ここでいう「観測」とは、私たちが各々の自意識を通じて日々おこなっている体験に相当します(この生活上の視点で、この「観察」を取り上げているのが、別掲記事〔9月22日発行〕「《観測装置》たる自分」です)。
そこにおいて、津田さんが最後で言っているように、それが「トリガー」となって、脳なり、そして人間世界なりの「因果性」が作られていると考えられているという人間の側の必要です。だから逆に見れば、人間の意識が存在しなければ、「そこにあるだけ」ということになるわけです。
こうした学的視点を、人生上の実用性の視点において見れば、その現実世界における「因果性」――日常的には現実的「通用性」――も、人間の意識が「そのように見ようとしているもの」で、そのトリガーを成すものは、「意識(とくに自意識)の存在」ということです。ここに、意識の見極めかた次第で、学と人生の両立場の共通性の発見、つまり橋渡しの可能性に至ります。つまり、ミクロとマクロを区別しない、共通の認識がここに見出せるわけです。
ただし、こうした両者の共有認識事項は、今日の科学世界においては、まだ未立証のことで、その意味で、仮説にとどまっている見解です。
しかし私は、それこそ生活者の置かれている「のっぴきならない」立場より、その立証を待たず、その確からしさを直観的に取り上げて、自らの生活や人生の判断に取り入れて行きたいと思います。もちろん、自己責任のリスクは負いますが、それによる恩恵は、そのリスクをはるかに越えるものがあると思います。やらない手はありません。