追記章 「漱石論」との遭遇を受けて(その2)

前回に述べたように、国文学界という畑違いの世界に首を突っ込み、当然に、おおいに戸惑わされる一方、新たな知見も得ています。加えて、同じ外国体験ではあるとしても、それらは一世紀以上も時代が隔たっており、しかも、両体験者の立場上の違い――片や漱石は明治のエリートであり、片や私は昭和の一般人――もあるわけですから、そこに顕著な相違が生じないのが不思議でもあります。本稿は、そうした外国体験について、おそらく極めて型破りにちがいない、すでに定着した見解とは距離をもった特異な見解を表すものです。

避けられぬ“衒学性”

そうしたありうる相違に関し、そこにはどうやら、相反する二つの見方がひそんでいます。それをまずストレートに言っておけば、「さすがに漱石」と「意外に普通な漱石」という対照的な人物像です。すなわち、取り寄せた国文学界の学術研究書『漱石「文学」の黎明』(神田祥子著)に発見しえるところでは、著名文学者を対象とした分析において、国文学界における博士学位研究としては当然に、しかし私のような門外漢にはいかにも衒学的と受け止められるほどに、実に詳細であることです。だがそれに反し、夏目金之助〔漱石の本名〕という一個人についての人間研究という面においては、人と人との関係であるならば当然に働くだろう繊細な感度が感じられず、とみに「ドライで冷淡」であることです。いうなれば、国文学の研究環境には何か定まった枠組みがあるようで、その枠を超えること自体が事実上のタブーであるかのようです。

想像するに、一世紀以上も過去のこととなった著名な人物を今日において評論するには、この間のおびただしい既存評論のいずれもの二番煎じとならない独自な視点が必須とされるでしょう。そして、その隅々までに目を配った緻密な議論は、そんな異界に首を突っ込んだ門外漢にしてみれば、その「衒学」さに目を見張らされ、正直なところ、興醒めすら抱かされても奇妙なことではないでしょう。

すなわち、漱石の国を背負った海外体験から120年余り後、一介の生活者による自前の決断と出費による海外体験は、ゆえに、極めて個人的関心による、非力ではありながら国の重圧からは自由な立場ではあったわけで、これは、だれもが海外に出られる今日的な特徴と言えるかと思います。

ちなみに、私が留学生としての生活を始めた当初、どういうわけか、自分があたかも日本を背負ってそこにいるかの意識に捕らわれているのを発見し、我ながら驚かされたことがあります。それはあたかも、この漱石の時代の心的風景の、実に120余年も経ながらもの残滓であったようです。

意外に常識的な漱石

私にとっての漱石は、日本の近代文学界を切り開いた先駆者というその輝く業績が先に立って、個人としての人間像にまで関心がおよぶ対象ではありませんでした。それが今回の遭遇をきっかけに、いくらかなりとも、その知らずにいたその人間的事実についての何がしかに気付くこととなりました。

たとえば、漱石は2年で留学を終えて帰国し、与えられている任務としての英語教職に復帰しつつ、その外国体験を基に「文学論」を講義し、自らの留学の成果をそのように明示します。その経緯に潜む心境を、その「文学論」の序章に著わされた記述から汲み取ると、私の受ける印象では、あたかも凡庸な官吏がその任務を“針小棒大”に報告するかのような、保身的な堅実さ――決して謙遜のレベルとは見れない――を見出します。たとえば、その序章は、こう切り出されています。

余はこの書を公けにするにあたつて、この書が如何なる動機のもとに萌芽し、如何なる機縁のもとに講義となり、今また如何なる事故のために出版せらるるかを述ぶるの必要あるを信ず。

時代柄の古い言葉使いの堅苦しさはさておくにしても、どこか威厳を張ったその文調の底に、なにやら言い訳がましい姿勢を感じさせられる、序章となっています。

また、その後に続く、この序章全体をおおう同様な雰囲気には、漱石の持つ、その名声からうける人間像とは裏腹な、意外に“普通な”人となりを発見させられる、驚きがあります。つまり、彼は、私個人としてはむしろそこに親しみを感じるのですが、時代のエリートであったにしては稀代にも、実に真摯で正直な人柄であったようです。そしてそれがゆえに、自らが置かれた立場や時代の求める役割のプレッシャーにさらされたそのストレスと、自らの内に抱いてきている自己意識という、両極化した心境のもたらす葛藤状態に至っている、そうした〈二重性の苦悩〉が独白されています。

西洋由来の「文学論」

ここで性急ながら、漱石にアプローチしてきた私の結論を述べておきますと、その「文学論」の基軸となるアイデアについては、留学によって得た西洋文学者による文学論を下地としたものであって、そういう意味では輸入品です。つまりそれのアレンジはあれ、彼自身による発想自体ではなさそうなことです。それに当時では、今とは違って、そうしたいわゆる「舶来」ものの取り上げについての抵抗感はなく、むしろ、留学なり海外体験は、そうした「箔をつける」に主要な機会であり、それがゆえに、そうした海外からの持ち込みがむしろ肯定されていた時代であったことです。

したがって、当追記章(その1)で述べた漱石の「文学論」にある「科学への疑問」についても、その視点の発生源は西洋社会にあって、当時の日本では、まだまだ科学は、それを輸入してモデルとする追随の時代であったわけです。そうした日本に、科学への近代的な批判精神は、まだ、芽生えていなかったと推測されます。ただ私は、そうした批判眼を漱石に限っては期待していたのですが、それはやはり時代的に、時期尚早であったと、考えを改めざるをえません。

ただその一方、漱石の文学、ことに漱石のいう「情緒」に存する創造性の根源は、私は、上述の〈二重性の苦悩〉にあるものと考えています。いうなれば、漱石がその威厳を張った文調の裏に隠したこの自分の、「恥部」とはいわずとも、「うずく動的な発意」こそ、その創造性の根底をなす震源となったがゆえと考えます。そして、その振動をエネルギーとし、それを「情緒」とつかみ取って、西洋仕込みのそれこそ舶来の文学理論を適用し、その形にならぬ「情緒」の形象化を図るとの方法論に基づいて創作されたのが、数々の作品であったと見ます。

いうなれば、漱石が講義した「文学論」の意義は、英国から持ち帰った近代的論理分析――文学議論には不似合いな数式さえ、その当時に用いられた――という理論体系を表したことにあって、それと日本由来の「情緒」とは、しいて言えば接ぎ木関係にあったと見ます。したがって、その理論体系と漱石の深部にひそむ創造の源たる〈二重性の苦悩〉とは、それこそ、水と油ほどに異なった別物であったと考えます。

漱石の“武装”

そうであるがゆえに、再度、門外漢のノイズであることは承知の上で申せば、国文学界内での緻密で行き届いた議論は、「情緒」と包括される創造源である〈二重性の苦悩〉の認識において、漱石自身がそう武装した創作上のスタイル上の議論として、やや横ずれした――日本化した西洋モデルとでも呼べる――視点で研究されてきたようであることです。

ただ、漱石の「文学論」が英国文学界での「文学論」を下地とした舶来品であることについて、国文学界での受け止めは意外に肯定的な通説っとなっていて、たとえば、『漱石「文学」の黎明』に、以下のような分析が述べられています。

漱石における「詩」と「画」、すなわち言語芸術と造形芸術の類似と差異に対する観念は、レッシングの芸術論『ラオコーン』からの影響に依る部分が大きい。漱石はしばしば『ラオコーン』に言及しており、「草枕」や「三四郎」にもレッシングの説が取り入れられているとされる箇所が存在することはよく知られている。

(p.102)

そして、その「草枕」をとりあげた同書第六章では、その「はじめに」に、こう述べられています。

本章では、漱石がこうした文学と美術の密接な関わりについて意識的であったことをうかがわせる証左としてしばしば言及される、十八世紀ドイツの劇作家・評論家レッシングの芸術論『ラオコーン』(1766)が「草枕」に与えた影響を改めて検討してみたい。

(p.148)

本稿では、漱石の「文学論」とレッシングの芸術論の、分析論理上の対照について、個々に取り上げては触れませんが、漱石の「文学論」に見られる極めて明晰な論理的、近代的な論旨の出どころが、漢文学に幼いころから親しんできたという漱石の心中からきたものではないことは明らかです。つまり、「水と油」と形容されるような、そもそも異なったものの混在が、そのようにして存在することになったわけです。

時代の違い

以上のような脈絡で、既述のように、私が、〈半分外人-日本人〉との副題をもつ『両生歩き』の記事に、同じ外国体験者として漱石に注目したのも、「さすがに漱石」との箔を借りる狙いもあったのですが、むしろ結論は、同じ外国体験に関し、それから120余年も経過し、いまや私ごとき一般人でも実行しうることとして、こうした明らかな対比をなしていることの例示となりました。つまり、同じく外国体験といっても、明治の当時と今日の私の体験とでは、それの持つ内容も意味も、大きく違っていたということです。

そこで、漱石の「文学論」の発生の経緯を、私なりにまとめれば、もともとは、子供のころより親しんできた漢文学を通じてはぐくまれた自意識の世界を抱きつつ、それを「情緒」と呼んで対象とし、何らかの形に組織したものを「文学」――ゆえに必ずしも文字化されたもののみに限っていない――と捉え、それを理論的に体系化したものを「文学論」としたものです。すなわち、文学として自らが接してきた実際の分野は、隣国、中国の文学であり、そこに漢文学としての「文学論」を見てきたということです。ゆえに、同じく外国である英国のもとでも、同じような「文学論」があるはずと考え、まずは、発足したばかりの東京帝国大学の英文学科に入学しますが、そこで出会ったのは、体系立った英文学論ではない断片な知識のみで、それに失望しつつも卒業はします。

卒業後、食い扶持を稼ぐ英語教師の職業についていたところに、文部省から、むろん中国ではなく、英国留学を命ぜられ、これもやむなくその命に従い、二年間の留学をします。しかし、最初の一年は、いわゆる英語を学ぶ体験にのぞむのですが、それが短期でなされるものではないものであることをさとり、せめてその使命の成果とするために、乏しい留学費をあてて関係書籍を買いそろえ、ほとんど独学で、自分の関心である、西洋の「文学論」を汲みとろうとしたのでした。

そのような漱石の「文学論」には、科学について言及した部分があり、それを、日本由来の近代科学の批判の萌芽として、私の「非科学-科学」の観点との近似性を期待したのですが、その内実は、基本的に漱石自身の発想ではなかったわけです。

考えてみるに、その萌芽までにはさらに時間を要し、昭和(戦前)において、西田哲学として、大きく別な観点からの発想にまで待たねばならなかったということです。

また、私が注目して取り上げてきている量子理論が生まれたのは漱石以後のことであり、またこの一世紀を越える期間における科学技術上の発展は、それこそ、IT技術を見るだけでも、比べ物にならないことは言うまでもありません。

そういう次第で、私が予期した、漱石の「文学論」中の近代科学批判への期待自体は、見当外れのものであったことを認めざるをえません。ともあれ、そうした西洋由来の科学への批判は、その後の一世紀余りをへて、日本をふくむ世界へと広がり、新たな時代を迎えようとしています。

ひとまずの終止と別の見通し

以上のような検討経緯をもって、この「生命情報」というカテゴリーに関連した議論としては、いわゆる「漱石論」にこれ以上に踏み込んでゆく必要はないと判断します。ただ、私が指摘する漱石の〈二重性の苦悩〉が生む創造性の源としての働きが、その諸作品には当然に著されていると思われます。そこでこの先、別の機会において、文学理論とは違和に――あるいはその異質な手法を通じて――扱われているだろうその働きの様を、追跡してみたいとは考えさせられています。

それと並んで、漱石のいう「情緒」についてですが、それは、私が「非科学-科学」の発想の原点にある〈直観〉と呼ぶもののに通底する同根のものと見ます。それが漱石の段階では、広い意味での文学において扱われている観点をもって、科学の外にある事象とされています。それを私は、科学の辺縁部にある事象と見るもので、二つの「学」のどちら側に立つかは異なれ、そうした着眼においては、互いに極めて近接し合う、あるいは、同等のものを指していそうです。ともあれ、この「情緒」か〈直観〉かといった対象化の呼称の違いはあれ、いずれにせよ、それらが人間の創造性の起点であること自体は、間違いないことです。

最後に、今回、国文学界に立ち入る手がかりとさせていただいた『漱石「文学」の黎明』では、すでに当時でも芽生えていた「科学万能主義の限界」(同書 p.11)を越える精神的手法としての文学をその科学と対置させ、その文学的実践を漱石の作品に確認するとの論法がとられ、それがゆえに、「黎明」であったとタイトル付けられています。つまり、そのようにして「黎明」した科学批判の流れが、現在の科学批判にもつながっているかと想定したのが私のこの一連の「漱石論」記事の起点であり、ここにその誤想定を確認する終点となりました。その早とちりはもちろん私の責任なのですが、それにしても、国文学という世界では、その120年前の出来事を断片のように切り取って議論するという、あたかも考古学のような研究が現行作業として行われているという発見をさせてくれました。あと二か月で78歳となる私にとって、120年程度の過去は、決して考古学的時期ではなく、歴史の流れの中のそれくらいの上流に過ぎません。その連続性の中に科学批判もあるはずで、当時の西洋由来の受け売り科学批判と、今日の西洋批判の中での科学批判とは、同じものではありません。少なくとも、今回、私が当たった国文学の資料の限りでは、その区別にまで言及したものには出会いませんでした。

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