準備からの一歩
前章では、目標とする「非科学な科学」に向けて、その準備である「中間的体験」を論じました。そこでその準備の上に立って、本章では、ひとつの創造的直観を手掛かりとして、いま一歩、その目標に近づく方途を探ってゆきます。
そしてこの「創造的直観」ですが、それが何かを言うのは容易でありません。いきなりパッとやってきて、そこがスタートでもありながらゴールでもあるような、突如として発火する何ものかです。ここではむしろ、それを説明するためにこそ、本章の議論を進める必要があります。
そこでまずその冒頭に、これは一見、本章の論旨とは無関係ですが、この直観には、現在とこの現実に生を得ているひとりの人間として抱く、ひとつの思いへとつながるところがあります。それは、今や人類は、再び、この惑星上で、もっとも愚かな生物種に陥ろうとしているとの危惧です。しだいに拡大する世界状況として、恐ろしい規模の殺戮があたかも当然のごとく行われ、その殺戮がまた次の殺戮の根になるという悲劇のスパイラルが立ちうごめいています。それを止めるには、どこかで何かを断ち切らなけばなりません。そうした断ち切りへの一歩として役立つものと信じたいがゆえです。
「人々を蹂躙しない科学」
こうした思いを展望しつつ、ここでまず、結論から先に述べます。それは、「人々を蹂躙しない科学」の樹立ということです。そしてこれこそが、述べてきている「非科学な科学」の核心です。またそれが、先に理論的枠組みとして提示してきた「理論人間生命学」の、次の段階ともなるべき、その実践的な体系の形成へと向かうものです。
「人々を蹂躙しない科学」の樹立ということは、「人々が科学を取り戻す」ということです。そしてここに言う「人々」とは、いまここに生活している、私たち一人ひとりということです。つまり、既述の「生活者」としての私たちということです。科学を、どこかの偉い先生や研究者のものとするのではなく、私たちの生活の一部にするということです。言い換えれば、私たちの生活が科学を構成するということです。
あるいは、私は若いころ、理論的なことが好きで、逆に、人間臭い非論理的なものは嫌いでした。それがこのごろ、その逆を行っている自分に気付かされます。そういう絡みでは、「人々を蹂躙しない科学」というのは、「人間臭い科学」という言い方もできます。
ともあれ、以上は結論から先に述べたものです。そこで以下、もっと順を追った話に入ってゆきましょう。
上下や順序を逆さまにする
これまでの議論では、どうしても、先に科学という大きな確立した世界があって、それにどう向かってゆくかといった基本的な姿勢から抜け出られませんでした。それが、科学が「認める」とか、「排除する」とか、「科学の辺縁」とかといった発想でした。そこにはどうしても、私たち自分自身が感じている現実や事実といったものと科学が扱う世界といったものが、それぞれ別々のものであり、自分が日頃得ているものは、はるかにその科学の世界以下の、低水準とは言わないとしても、違った世界のことだといった認識が伴ったものです。
そこでですが、先の議論のうちで、「自然実験」という新たな着想が、2021年のノーベル賞を受賞するという大きなブレークスルーがあったと指摘しました。そしてその新たな着想の意味とは、科学にとって不可欠である〈実験による実証〉という方法について、従来では、その実験を厳格にコントロールする必要から、たとえば実験室という、それにふさわしい環境や実行方式を満足させた実証作業というものが要求されてきました。
ところが、社会現象や私たちの人生は、実験室で行われるのではなく、そうした厳格な管理をしようにも、そもそもそれが不可能な状況下で行われているからこその社会であり人生です。それほどに、切羽詰まった待ったなしの状況下にあって行われるものです。
そこでそうした実験になじまない現象を科学として解明する方法として、自然災害での変化とか、たまたまに生じた社会での変化とか、あるいは、別々の社会が別々に選んだ違った政策であるとかと、意図して生じさせた違いではないものの、自然に生じた違いというものを実験条件として捉え、その違いをもとに比較して考察するという方法が上記の「自然実験」です。そして、その検証が、ノーベル賞の受賞として、科学的意味が与えられるものとなったわけです。画期的な前進です。
そしてここで気付いておくべきことは、社会という人間の集団がもっている諸要素を、そのように全体がもたらす大きなデータとして扱い、分析するという手法の登場です。そしてそれは、集計対象となったあらゆる人々に関する要素が、一つひとつは微々たるものながら、その全体にわたって含有されているということです。管理可能に抽出されたデータではありません。
言い換えれば、従来の要素還元主義的な科学の分析方式ではなく、人間集団の多数要素が網羅して取り入れられた総合方式の分析に、原理的に立脚しているということです。この違いは重大です。
そしてさらには、既述のように、この人間集団なり、個人なりを対象に、その時間的経過によって生じてきている変化についても、これも上記の「自然実験」として捉えることができるということです。つまりは、私たちの人生経験というものについても、それをデータとして扱いうる手順や正確さを備えたものであるならば、これも同じく、「自然実験」の対象となりえるものです。
これは言うなれば、科学上の「民主主義」的手法です。そしてこれは、とかく政治上の民主主義が、投票率が50パーセントにもならないとか、一票の重みに二倍の開きがあるとかと、厳密な意味での一人一票の反映、つまり、個々人が網羅されて対象とされていない実態と比較しても、有力な民主的友軍の登場です。それこそ、あらゆる要素を組み込んだ、真の「民主主義」を体現している――少なくとも、その意義を内包している――そうした社会なり地球なりへの可能性です。
原理上の突破口
そう考えると、従来のように、科学上の「実験」と人生上の「実践」とを区別しなければならない、理論的な理由は決定的に後退します。むろん、人生という舞台と、科学における実験室の、その厳密管理上の精緻さの違いがあるのは言うまでもありません。しかしだからと言って、扱うべき対象について、その厳密性を理由に、捨象してはならないものまで捨象されていいわけではありません。言うなれば、厳密がゆえにウソっぽい、そんな伽藍の崩壊の始まりです。そういう意味で、原理的な公平性が、科学の世界においても、ようやく保障される実勢になってきていることに期待するものです。
それに加え、今日のIT技術の発達は、過去では容量的に限界を越えていた、いわゆるメガデータを扱うことが可能となってきており、それがゆえに退けられてきた分野に、分析の手が伸ばせるようになってきています。その意味では、科学技術の発展の恩恵です。
ただし、本章でのこうした議論は、あくまでもまだ、前章の準備に続く方法論上の進歩に焦点をあてたものにすぎません。しかし、この原理的な突破口が見えたということは、決定的な一歩ではないかと考えます。すなわち、科学の世界においても、政治的な民主主義の原則にならった、構成者全体を対象としうる時代の幕開けです。
その意味で、科学技術の横暴にブレーキをかけ、人間性を復活する「非科学な科学」を開始するそのお膳立ては、すでに出来上がってきていると言えましょう。
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以上、本章では、科学考察の方法論上の変化のはらむ意味について見てきました。次章では、そうした新たな方法が実際に行われ、新たな可能性が開かれてきている現実の分野を取り上げてゆきます。