1.科学という秩序
まず最初に、ひとつの問いをあげます。それは、「正しい生き方」というのはあるのだろうかとの問いです。言い換えれば、「人生の指南書」あるいは「人生マニュアル」と言ったものはあり得るのだろうかとの問いです。そこでのその「正しい」とは何か、それをどう表すのか、ということです。
むろん、その「正しさ」を表した“自称正論”は、自己信念から世間常識、政治理念そして宗教教義に至るまで、それこそ五万とあります。
そうした扱え切れないほどの「正しさ」さの洪水から、本稿では、科学にまつわる正否を採り上げます。それは科学が、方法として、もっとも精緻に議論されている秩序の世界であるからです。
2.「人生」という別界
その一方、誰しも、なんとか「正しい」生き方をしようと思い立ち、それなりに考えたことはあるはずです。しかし、人生とは、のっぴきならないものを満載した「待ってくれない」乗り物です。そこで生きてゆくためには、何が正しいのかの結論が出るまでは待ちきれず、ともあれ、その時々を、行動してゆかねばなりません。
いうなれば、人生では「何でもあり」であって、ルールも法則も「知ったことか」の世界に傾きがちです。
かくして私たちにとってのリアリティーは、この「正しさ」と「待ったなし」の、いかにも「オール・オア・ナッシング」のはざまにあって、何はともあれの方向を打ち立て、邁進せねばならないこととなります。
3.「オール・オア・ナッシング」の間で
そうした私たちが、「オール・オア・ナッシング」な馬の背を生きて行く時、おそらく、自分は自人生の「研究者」であると思っていることはまずないでしょう。しかしその一方、自分は「生活者」であるとか「当事者」であるとかは、つねに意識し、むしろそう思い知らされてさえいるはずです。
そういう自分の人生を、上の問いのように、「正しい」生き方とは何だろうと考えはじめた時、その自分を「研究者」と自認することはなくとも、自分が自人生に関しての専門家であることは間違いありません。なぜなら、自分の人生について、他者の誰もが知らないことについてまでも、すべてを知っている――少なくとも実体験している――からです。
そこで、そういう人生の専門家を、「研究者」と呼ぶか「生活者/当事者」と呼ぶかはともかく、誰しも、自人生に全力をもって取り組んでいるには違いなく、そういう姿はもう、専門家であるばかりでなく、並の「研究者」以上の「研究者」であると言えます。
4.自分実験
そういう「研究者」が取り組んでいる専門領域を、ここで《人生学》と呼んでみます。
この人生学の研究者である私たちは、そうして、日々、一時も欠かすことなく、その専門領域を研究しており、しかもそこで重要なのは、その研究者は、一人として欠かすことなく、自分を実験台として使い、実体験していることです。
むろん、そう意識していることはほとんどないでしょうが、自分で「正しい」と信じるものを、そうと立証できようができなかろうが、それこそ「待ったなし」に、それを「仮説」として立てたも同然に、それを実践しているわけです。それはもはや、まぎれもない自分を対象にした実験です。むろんそこにおいては、それが成功するも失敗に終わるも、すべて自己責任です。誰しも、それくらいのことを果たしているのです。そして、それが人生なのです。
ということは、自分の人生をおくる私たちは、人生の研究者であり、そこでは自分をサンプルとして、日々、実験に当たっているということです。まさしく科学者のしていることそのものです。つまり、そういう私たちは、単なる生活者でしかないのか、それとも、いっぱしの科学者であるのでしょうか。
5.《人生学》という《非科学》な科学
一般に、科学者とは、自分の専門領域を持っていますが、それは、自分の外にある領域であって、実験対象とするのは、その外の分野にあるさまざまの事象です。いわばそうした研究対象は、自分事ではありません。そして、そういう科学者がうちたててきた様々な法則が、今日の人間の文明の主要な骨組みをなしているわけです。
その一方、世界に、人の頭の数だけ間違いなく存在する自人生をめぐって、その専門家であり研究者である一人ひとりの個が取り組んでいるこの《人生学》について、不思議なことに、それを学科に掲げる大学が一つとしてありません。今日の文明の主体をなす科学ではないからだとして当然とはしても、もはやそれは、主客転倒そのものとさえ言ってよいはずです。
この誰もにとって、死ぬまで、必修科目であり続ける《人生学》を、どこかの大学がそれを体系化して学として提供するならば、それこそまさにパラダイムの転換で、学界に新風をもたらすでけでなく、とてつもなく多くの熱心な入学者を獲得できるに違いありません。ビジネスで言えば、巨大なユニコーンです。
ともあれ、《人生学》という《非科学》を科学としてあつかう――つまり科学のパラダイム転換の――余地は、間違いなく存在しているということです。
このように、「正しさ」と「待ったなし」の「オール・オア・ナッシング」のはざまに、《人生学》という《非科学》を、科学の新たな領域として設定してゆきたいと構想するものです。